書きたいことを書きたいだけ

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夏目漱石『道草』感想

島田の態度がだんだんデカくなって、しまいには金を貸すのが当然だ、貸さない方がおかしい、みたいになるのは読んでて腹が立った。健三はそんな島田に会うのが嫌でたまらないのに何回も会ってしまう。そして、最終的に金を渡す。

 

島田を見捨てきれないのは、健三には自身も気づいていない深いところで、島田への愛情があるからだと思った。健三は島田との関連で幼い頃の事を思い出す。おもちゃを買ってもらったり、洋服を作ってもらったり、遊びに連れて行ってもらった記憶が鮮やかに蘇る。そして、その頃の島田への気持ちについて次のように書かれる。

 

「こんな光景をよく覚えている癖に、何故なぜ自分の有っていたその頃の心が思い出せないのだろう」

 これが健三にとって大きな疑問になった。実際彼は幼少の時分これ程世話になった人に対する当時のわが心持というものをまるで忘れてしまった。

「然しそんな事忘れる筈がないんだから、ことによると始めからその人に対してだけは、恩義相応の情愛じょうあいが欠けていたのかも知れない」

 健三はこうも考えた。のみならず多分この方だろうと自分を解釈した。

夏目漱石 『道草』 改版,新潮社,2011,p.49

 

「多分この方だろうと自分を解釈した」という書き方が、実はそうでないことを示しているように思う。

 

* * *

 

しかしながら、全体的に世知辛い話だ。世間を生きることは大変で、その原因は金と人間関係だ、ということを延々と見せ付けられる。

人生には良いことだってたくさんあると思うけど、そのようなポジティブな面は省かれている。子供が誕生する場面ですら喜びの感情は描写されない。

登場人物たちの関係性も、愛憎入り混じっていて複雑だ。現実世界の人間関係もそうだから、リアルだとも思う。

 

過去に起ったことはそう簡単にケリがつかない、というのが一つのテーマだけど、この辺りは実感として分かる。生きてると、ケリのつかないことがどんどん背中の上に溜まってきて、だんだん身動きが取れなくなっている気がする。悲しいです。

 

* * *

 

解説によると本作は漱石先生の30代後半の頃の生活を素材にしているとのこと。それで、同じ時期を素材にしていて、内容が対照的なのが『吾輩は猫である』で、両作は表裏一体の関係にあるらしい。

ということで、次は『吾輩は猫である』を読もうかな。や、でも『彼岸過迄』にして、まずは後期三部作を読了しようか。少し迷う

 

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大岡昇平 『野火』 感想

 

 その時変なことが起った。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。

大岡昇平著 『野火』 改版,新潮社,1987,p.131

 法律は海の彼方だ。モラルも常識も熱帯の森の中で腐り果てている。そんなフィリッピン戦線において、人はただ一個の生命体で、生命体の絶対的課題は生命の維持である。生命維持より優先事項があるならば、それは生命体の極みを超えている。田村一等兵はこの時神の側にいた。天使であった。

 なぜ天使となったか。それは喰おうとした兵士が死の直前、一言呟いたからだ。

「何だ、お前まだいたのかい。可哀かわいそうに。おれが死んだら、ここを食べてもいいよ」

同書,p.129

 神とは愛の息吹である。死んだ兵士の愛、応える田村の愛、ここに神が在ったからだ。

 

* * *

 

 しかし、その後僚友と再会した田村は、渡された肉を喰う。それが何の肉であるか分かっていたのに。

 記憶を失った十日間の中で、田村は野火の煙を見ると、必ずその元へ行った。その理由は彼自身にとっても定かではないと言う。野火の下にいる人間を、天使として懲らしめるためなのか、それとも喰うためなのか。

 

* * *

 

 人はただ一個の生命体ではない。だけど、その一方で、天使として神の側に居続けることもできないのだと思う。

 

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SF映画「トータル・リコール」感想

 

ネタばれあります!

 


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15年ぶりくらいに観たけど、こんなに面白かったっけ?

 

火星の古代遺跡とか、おっぱいが3つの娼婦とか、いかにもB級なアイデアが楽しいし、音楽もかっこいい。

何より、次から次にピンチがおとずれる展開が飽きさせない。で、どんなピンチも、シュワちゃんが筋肉と直感だけで切り抜けていく。爽快だ。

記憶を消す機械に無理やり押し込められて、ヤバいどうするという時、結局力づくで装置を破壊して脱出したシーンは笑ってしまった。

ご都合主義と言えばそれまでなんだけど、シュワちゃんがやることで無理やり納得させられてしまう。ずるい。。

息もつかせぬストーリーの中に、まだ夢の中にいるのかもという、ちょっとミステリアスな感じもあって、そこも魅力になっている。

 

夜中にたまに見たくなる映画だと思う。

 

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昨年やったこと、今年やりたいこと

昨年やったことと、今年やりたいことのメモです。

 

1.日本史の勉強

昨年の1月、すごく勉強がしたくなった。

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その後、若干波はあったけど、わりと勉強できたし、本も読めたと思う。

 

何を学ぶにも歴史は重要だと思ったので、初めに日本史を勉強することにした。下手すると小学生レベルなので、高校生向けの参考書を読んでいる。

この『日本史トータルナビ』は内容が整理されていて分かりやすい。レイアウトもきれいで好きだ。重要な語句は赤字で書かれていて、付属の赤シートを使えば暗記にも活用できる。若干誤字が多いけど致命的なものはそんなにないと思う。(正誤表も作った)

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とりあえず暗記するつもりで2周終了。今年の上半期中にもう1周したい。

 

2.数学の勉強

ずっと数学に苦手意識をもっている。くやしい。なので数学も勉強している。

高校数学から始めようと思い、チャート式を買ってコツコツ解いている。数学Iの範囲は解き終わった。またアウトプットも大事だと思い、数学関連の記事を書いてみたりもした。

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上半期中にチャート式を一通り終えることが目標。記事を書くことも続けたい。

3.英語の勉強

英語の勉強が好きなんだけど最近ご無沙汰だったのでまた再開したい。上半期で日本史に区切りをつけ下半期から始めようと思っている。どんな教材をやるかはその時に決めよう。

4.本を読む

昨年は諸事情により大分時間ができたこともあり、人生で一番本を読んだ年だったかもしれない。昨年ほどは無理だとしても読書を継続していきたい。隙間時間を使うと週に新書1冊くらいは読めそうなので、そのくらいのペースは維持しよう。夏目漱石を読み始めたので、主要な作品は今年中に読みたいな。

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5.ブログを書く

週に1記事、1年で50本くらいは書きたい。と言いつつもマイペースに続けようと思う。テーマはこれまでと変わらず、書きたいことを書きたいだけ書くブログで行きます。

 

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夢枕獏『上弦の月を喰べる獅子』の感想 ネタバレあり

ネタバレあります

 

ハヤカワ文庫で読んだ。

 

まず、すこし残念だったことは、下巻で物語が失速してるように思えたこと。

後半は会話が主体になるんだけど、会話劇に耐えるほど登場人物に深みがないと思う。

獅子宮での問答に対する答えも、それまで何回も述べられていて今更感があったし、謎めかされていた二問目の問いと答えも、特段ハッとするものではなかった。

 

でもこれは、上巻が面白すぎたから、その反動でそう思ったのかも。

螺旋収集家と岩手の詩人の幻想的なモノローグから、謎の螺旋世界蘇迷楼スメールへの転生、そこでの異様な生態系の描写と冒険譚は、夢中で読んだ。

『地球の長い午後』とか『風の谷のナウシカ』みたいな、作家の強烈な想像力によって、問答無用で別世界に連れていかれるSFが好きなので、とても面白かった。

 

蘇迷楼について、

 小屋の背後の空のほとんどを、おそろしく巨大なものが塞いでいた。

 ―山⁉

 いや、山というよりは、それは空に向かって開いた大地であった。大地そのものが、蒼い虚空にむかってせりあがり、広がっているのである。

 天空に地平線があるのだ。

夢枕獏 『上弦の月を喰べる獅子 上』 早川書房,2011,p.140

と描写されているけど、下の図みたいに大地が螺旋状になっていてるんだと思う。

 

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蘇迷楼の構造

 

あと、最近たまたま禅の本を読んでいて、そのおかげで雰囲気がつかめた気がする。

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***

 

本書の下巻に野阿梓氏の解説『「上弦の月」とかけて「それを喰べる獅子」と解く』が入っている。けっこう難しく一読しただけではよく分からなかったので、メモとして要約と考えたことを書く。

 

野阿氏は本書に微かな”不協和音”があると述べる。それはダモンとシェラの関係である。

ダモンとシェラは、主人公の一人である宮沢賢治の、妹への情欲を象徴している。だから物語の構成上の要求として、彼らの性愛は原始的・動物的になされなければならない。

一方で、ダモンとシェラは人語を解し言葉で思考していることから、まったくの野性な存在ではない。文化の影響を受けているし、そこには近親相姦へのタブーも含まれる。

ここに矛盾が生じる。物語からの要求として全く野性的でなければならないのに、作中に生きる人物として、それは不可能な要求なのだ。

矛盾を抱えて物語は進み、クライマックス直前で彼らは殺し合い、最期をとげる。このシーンは俗的、即物的に描かれている。神話的で聖なる場面にすることも十分できたと思われるのに何故そうしなかったのだろうか。

それは、本書が救いの書だからである。作品そのものの構造が、すなわち物語のプロセス自体が「解脱」となっている。よって、物語の最終段階の混沌との問答によって、主人公のみならず、ダモンとシェラ、あらゆる人間的存在が救済されるからである。

 

***

 

ダモンとシェラが物語の要請で動いている、というのは確かに分かる。そう言われてみると、彼らだけじゃなくてラフレシアウルガも物語のために動いて話しているように思えて、会話劇にあまり魅力が感じられなかったのはこのためかもしれない。

 

本書が救いの書だから、ダモンとシェラの最期が即物的に書かれている、というところはあまり解っていない。すべての存在が救われるから個別の救済は書かなかった、ということかな?

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全データが小さくなると中央値も小さくなることの証明[数学I+A データの分析]

前書き

5つのデータがあったとする。例えば、Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさんのテストの結果5つ。その平均値をAve1、中央値をMed1とする。

5つのデータの値が、それぞれすべて小さくなった場合を考える。すなわち、もう1回テストを受けたら、全員成績が下がった場合。

この平均値をAve2、中央値をMed2とする。

Ave1 > Ave2

これは分かる。明らかである。

じゃあ、

Med1 > Med2

なのかと言われると、すごーくそんな気がするけど、今一歩確信が持てない。順序が入れ替わったりするから、意外とMed1 = Med2 となることもある気がしないでもない。(自分だけ?)ということで、証明を考えた。間違ってたら教えてください!

 

証明

例として、データの大きさが5つ(A,B,C,D,E)の場合を考える。それぞれのデータの値をA1~E1とする。

データを小さい方から並べると、

A,B,C,D,E

であったとする。この時、

A1≦B1≦C1≦D1≦E1   (1)

であり、中央にあるデータはCであるから、中央値は

Med1 = C1   (2)

である。

 

次に、それぞれのデータの値が小さくなり、A2~E2になったとする。

A1 > A2,B1 > B2,C1 > C2,D1 > D2,E1 > E2   (3)

 

この時の中央値Med2について、3つの場合に分けて考える。

 

[1]場合1:Cがデータの中央にある場合

データを小さい方から並べると

?,?,C,?,?

となる場合、データの値の大小関係は次のようになる。

? ≦ ? ≦ C2 ≦ ? ≦ ?

よって、中央値は

Med2 = C2   (3)

である。

したがって(1)(2)(3)より

Med1 = C1 > C2 = Med2

すなわち、Med1 > Med2

 

[2]場合2:Cが中央より後半にある場合

データを小さい方から並べると

?,?,?,C,?

もしくは

?,?,?,?,C

となる場合、

データの値の大小関係は、

? ≦ ? ≦ ? ≦ C2 ≦ ?

もしくは

? ≦ ? ≦ ? ≦ ? ≦ C2

となる。いずれの場合も

Med2 ≦ C2   (4)

である。

したがって(1)(2)(4)より

Med2 ≦ C2 < C1 = Med1

すなわち、Med1 > Med2

 

[3]場合3:Cが中央より前半にある場合

[3-1]Cが中央より1つ前の場合

データを小さい方から並べると

?,C,X,Y,Z

となる場合、すなわちCが中央より1つ前にある場合を考える。

Xのデータの値がMed2となる。

 

X,Y,Zには、AかBの少なくとも1つが入る。

 

Aが入る場合、

C2 ≦ A2   (5)

が成り立つ。(1)(3)(5)より、

C2 ≦ A2 < A1 < C1   (6)

したがって(2)(6)より

A2<C1=Med1

 

Bが入る場合、

C2 ≦ B2   (7)

が成り立つ。(1)(3)(7)より、

C2 ≦ B2 < B1 < C1   (8)

したがって(2)(8)より

B2<C1=Med1

 

以上から、X,Y,ZにAが入る場合、Bが入る場合いずれにおいても、

X,Y,Zのデータの値にはMed1より小さいものが少なくとも1つ含まれる。

従って、X,Y,Zのデータの値のなかで最小であるXのデータの値は、Med1より小さい。

Xのデータの値がMed2であるから、Med1 > Med2

 

[3-2]Cが中央より2つ前の場合

データを小さい方から並べると

C,X,Y,Z,W

となる場合、すなわちCが中央より2つ前にある場合を考える。

Yのデータの値がMed2となる。

 

X,Y,Z,Wには、AとBの2つが入る。

 

Aについて、

C2 ≦ A2   (9)

が成り立つ。(1)(3)(9)より、

C2 ≦ A2 < A1 < C1   (10)

したがって(2)(10)より

A2<C1=Med1

 

Bについて、

C2 ≦ B2   (11)

が成り立つ。(1)(3)(11)より、

C2 ≦ B2 < B1 < C1   (12)

したがって(2)(12)より

B2<C1=Med1

 

以上から、X,Y,Z,Wのデータの値にはMed1より小さいものが少なくとも2つ含まれる。

従って、X,Y,Z,Wのデータの値のなかで2番目に小さいYのデータの値は、Med1より小さい。

Yのデータの値がMed2であるから、Med1 > Med2

 

[4]まとめと一般化

いずれの場合にもMed1 > Med2となるから、

データの大きさが5つのとき、データの値がそれぞれすべて小さくなった場合に、Med1 > Med2となる。

データの大きさが5つでない奇数のときにも、場合1,場合2については同様に証明される。

また、場合3については、Cが中央よりn個前にある場合、Cより後ろにMed1より小さい値が少なくともn個あるため、Med1 > Med2となる。

よって、データの大きさが奇数のとき、データの値がそれぞれすべて小さくなった場合に、Med1 > Med2となる。

さらに、データが大きさが偶数のときでは、Cが中央値の算出に用いる中央の2つの値に入るとき、その後半にある場合、その前半にある場合として場合分けすることにより、同様に証明される。

したがって、データの値がそれぞれすべて小さくなった場合に、Med1 > Med2となる。

 

証明おわり

 

おわりに

2015年 センター試験 数学 I+A 第3問 の類題がチャート式に載っていて、解答で上記のことが自明のように書かれていたことが発端です。

 

大学入試センター試験|解答速報2015|予備校の東進

 

検索しにくいので考えてみました。一応、自分の中では納得。

 

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鈴木大拙 『禅と日本文化』 感想 

 

 何となく、禅の目指すところが分かった気がする。

 

 禅は、無明アヴイデイアカルマの密雲に包まれて、われわれのうちに睡っている般若を目ざまそうとするのである。無明と業は知性に無条件に屈服するところから起るのだ。禅はこの状態に抗う。知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自から論理を蔑視する。

鈴木大拙著 『禅と日本文化』 改版,岩波書店,1964,p.3

 

言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない、実体こそ、禅において最も高く評価されるのものなのである。

前掲書,p.7-8

 

人間は進化のどこかの段階で言葉を使うようになった。

コミュニケーションのために発明された言葉は便利で強力だけど、「代表するものであって、実体そのものではない」という弱点がある。


夕日を見て、ああとため息をついて、心が動く。そこに本質がある。でも、それに「美しい」という言葉を付けると、抽象化されて、一つの概念となってしまう。

一度言葉を覚えると、言葉で思考し、感情も言葉で表現し、概念の世界を生きていくことになる。言葉にすることで漏れ落ちてしまった沢山のものには気づかない。むしろ、漏れ落ちたものこそが本質なのだ。

禅が求めるのは、言葉が発明される前の人類が見ていた世界なんだと思う。人類じゃなくて個人であれば、いまだ言葉を覚えていない幼少期の、あるいはさらに遡り、羊水にプカプカ浮かんでいたころの、その時の世界のあり方を感得するのが禅の目的なのだと思った。

 

* * *

 


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ゲーム「Death Stranding」のトレーラー・ムービー冒頭で、ウィリアム・ブレイクの詩が引用されている。

 

TO SEE A WORLD IN A GRAIN OF SAND

AND A HEAVEN IN A WILD FLOWER

HOLD INFINITY IN THE PALM OF YOUR HAND

AND ETERNITY IN AN HOUR

 

神秘的でかっこよく、すごく好きだなと思って記憶に残っていた。本書の「第7章 禅と俳句」を読むんで、この詩はまったく禅、俳句の思想だと思った。

 

万物は未知の神秘の淵からくる。そのいずれの一つを通しても、人はその深淵をのぞき込むことができる。

前掲書,p.187

 

深淵を前に、人は黙することしかできない。その沈黙をかろうじて破るのが17文字の俳句なのだ。加賀千代女の

 

朝顔

つるべとられて

貰らひ水

 

という句について、次のように述べられている。

 

千代女が朝顔を見たとき、彼女の内部うちのなにかが彼女に告げた、この世では認めることのできぬ美、直接あらゆる価値の源泉から咲きでている美をよそおって、それが眼の前に立っているのだと。

前掲書,p.175

 

* * *

 

「というわけで、禅は言葉以前の世界を目指すものと思うのですが、どうでしょうか」

 

「お前がそう思うなら、そうなんだろう」

 

「はあ。師匠は禅とは何か、どう思っておりますか」

 

「私は何も思っていないし、禅は禅だ」

 

「あのお、もう少し丁寧に教えてください」

 

「喝っ!」 「いでっ」

 

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