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柄谷行人 『世界共和国へ』 要約と感想

分かったところを書きます。

 

 

1.本書の目的

 現在の世界は、国民国家と資本主義に覆われている。この体制を越える道筋を考えることが本書の目的である。

 なぜ越えなければならないのか。それは、この体制に起因して、緊急に解決しなければならない人類的課題が生じているからだ。

即ち、

1 戦争
2 環境問題
3 経済的格差

である。これらの課題は人類にとって致命的なカタストロフになりかねない。「国民国家と資本主義」を越えた先にある理念的な体制が、本書のタイトルとなっている「世界共和国」だ。

 

2.考察の方法

 現体制を越える道筋を考えるためには、なぜこの体制があるのか、存在根拠を理解しなければない。そのために本書では次のような方法をとる。


 まず国民国家と資本主義を「資本=ネーション(国民)=国家」と3つの要素に分け、その接合体として捉える。
 次に社会における4つの「交換様式」という視点から、資本、ネーション、国家の存在原理を考察していく。4つの交換様式とは以下のものである。

 A:互酬(贈与と返礼)

 B:再分配(略取と再分配)

 C:商品交換(貨幣と商品)

 D:アソシエーション

 更に15,16世紀を境界として、資本制以前の世界(世界帝国)と、資本制以後の世界(世界経済)に分けて考える。
 このような方法により現体制への認識を深めていき、これを越える道を探る。

 

3.資本制以前の世界(=世界帝国)の構造

 資本制以前の世界を交換様式の観点から図示すると、以下のようになる。

 

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資本制以前の世界

 まず、支配的共同体が、他の共同体と様式B:再分配の交換関係を結んでいる。これが資本制以前の国家である。次に、共同体の中での交換がある。これは支配的な共同体=国家のなかにも、支配される側の共同体のなかにも存在し、様式A:互酬の形をとる。さらに、支配される共同体の間にも交換が持たれている。これは様式C:商取引である。

 

 このように、3つの交換様式が存在しているが、資本制以前の世界で支配的様式は、Bの再分配であった。

 

4.資本制以後の世界(=世界経済)への転換

 現在世界を覆っている「資本=ネーション=国家」体制への変化は、15,16世紀の西ヨーロッパから始まる。

 このころ、大航海時代の到来により世界市場が成立し、様式C:商取引が活発になっていった。商取引の担い手は都市の商工業者であった。

 時を同じくして、西ヨーロッパ諸国で絶対王政が確立する。これは各国の王が勃興してきた商工業者層と結託し、封建諸侯や教会といった他の勢力の権力を奪うことにより成立した。このタイミングで国家と様式C:商取引が結び付く。同時に主権国家という概念も生じる。

 17世紀、イギリスに産業資本が出現し、本格的な資本主義経済が成立する。主権国家と資本主義は、旧来の共同体を解体していったが、それに応じて「ネーション」が形成された。ネーションは、解体された共同体と交換様式A:互酬を「想像的」に回復させるものである。

 こうして「資本=ネーション=国家」の結合体が形成されることになった。この3つは、別々の交換原理(資本は様式C:商品交換、ネーションは様式A:互酬、国家は様式B:再分配)に基づいているが、互いに互いを支えている。(柄谷はボロメオの環と表現している)

 

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出典:柄谷行人著 『世界共和国へ』 岩波書店,2006,p.175

 「資本=ネーション=国家」体制は、本質的に他に伝播する性質をもつ。資本主義は市場の拡大を求める。また、主権国家という概念は、主権国家でない国は支配してもよいという考えであり、支配されないために主権国家が増えていく。

 結果として世界中に「資本=ネーション=国家」が広がる今日の体制が成立する。

 

5.「資本=ネーション=国家」を超えて「世界共和国」へ

 この体制を超えるためには、4つめの交換様式D:アソシエーションを基とした理念的な体制=世界共和国を目指すことが必要である。アソシエーションとは何か。以下のように述べられている。

 アソシエーショニズムは、商品交換の原理が存在するような都市的空間で、国家や共同体の拘束を斥けるとともに、共同体にあった互酬性を高次元で取りかえそうとする運動です。それは先にのべたように、自由の互酬性(相互性)を実現することです。つまり、カント的にいえば、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」ような社会を実現することです。

前掲書 p.179

 

また、具体的な方法として、社会の下からと上から、2つのものが挙げられている。

 

1 消費者として資本に対抗する。すなわちボイコット。

2 各国が軍事的主権を国連に譲渡する。例:日本の憲法第9条

 

6.感想

 まず「資本=ネーション=国家」体制の強力さが印象に残った。倒そうと思っても倒れない生命力、どんどん広がる繁殖力が凄い。

 これを超えるために挙げられた方法は、目新しいものではない。だけど「何となくよさそうだから」ではなく、「それしかない」という確信に基づいてその方法を選ぶことに意義があるんだと思う。

 あと、ちょっと考えたのが、GAFAの位置づけについて。次のような一節がある。

資本主義がどんなにグローバルに浸透しようと、国家は消滅しません。それは商品交換の原理とは別の原理に立ってるからです。 

前掲書 p.215

将来、今以上にGAFAが世界を牛耳って、ますますバーチャルの世界が発展していっても、国家はなくならないのかな。国家と資本が互いに支え合う関係から、資本が国家の力を超越する関係になるような気もするけど、どうなんだろう。

 互酬の交換様式を回復するためにネーションがあるというところも、SNSサービスみたいな、資本が利益のために作った、培養したコミュニティに取って代わられたりしないかな、とか思った。

 

 マルクス、カント、ルソーなどの思想が多く引用されているけど、世界史で名前を聞いた程度で、理解できていない。社会学とか経済学も勉強したいです。

 

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夏⽬漱⽯ 『こころ』 感想

 

ミイラ状態でも何でもいいから、奥さんのために生きてろや、というのがまず思ったところ。

 

「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。さい以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかいない男と思ってくれています。そういう意味から云って、私達は最も幸福に生まれた人間の一対いっついであるべきはずです」

夏⽬漱⽯著 『こころ』 筑摩書房,1985,p.31

 

そんな人を一人残すのはひどいでしょ。罪滅ぼしに自殺したのかもしれないけど、それによって前にもまして重い罪を作ってるんじゃないだろうか。

 

という風に、先生が最後に出した結論には大反対だけど、罪の意識とそれを一人抱える孤独には共感を覚えた。

 

しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型いかたに入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生へいぜいはみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」

前掲書 p.77

 

これ経験があるんですよ。なるべく正直に生きたいと思ってきたんだけど、ある時やってしまって。その後、数年間は強い罪悪感に苦しんだ。薄らいできたとはいえ今も後悔がある。反省して次に活かそうってケリもつけられず、死ぬまで引きずると思う。でも、生きてくしかないでしょう。

 

---

 

ちくま文庫版には小森陽一氏の解説がついている。その中で主人公「私」と先生の「奥さん」が現在は結婚しているんじゃないかという解釈が書いてあって驚いた。確かにそんな気がしないでもない。どうなんだろう。

 

 

次は『道草』を読む予定です。

 

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『日本史トータルナビ』 正誤表(個人メモ)

 

井之上勇、以西正明著『日本史トータルナビ INPUT&OUTPUT900』 2016年10月18日 第1刷 の正誤表です。

内容に影響のない誤字・脱字についても見つけたものは書いておきます。あくまで個人のメモで正確性の保証はできませんので、ご了承ください。

 

 
p.40 (9行目) 庚寅年籍 (下線部が赤字) 庚寅年籍の (下線部が赤字)
p.46 OUTPUT 065 Q.次のうち、不輸祖田を選びなさい。
①寺田 ②分田 ③位田 ④功田 ⑤賜田
A.
Q.次のうち、不輸祖田を選びなさい。
①寺田 ②口分田 ③位田 ④功田 ⑤賜田
A.
p.47 OUTPUT 067 ①計帳は・・・課税台根である。 ①計帳は・・・課税台帳である。
p.66 彫刻の表 唐招提寺
唐招提寺鑑真和上像』・・・乾漆像
東大寺金堂廬舎那仏像』・・・乾漆像
『新薬師寺十二神将像』・・・塑像
聖林寺十一面観音像』・・・乾漆像
唐招提寺 ほか
唐招提寺鑑真和上像』・・・乾漆像
唐招提寺金堂廬舎那仏像』・・・乾漆像
『新薬師寺十二神将像』・・・塑像
聖林寺十一面観音像』・・・乾漆像
p.81 OUTPUT 122 また、藤原道綱の母が著した また、藤原道綱の母が著した
p.135 肖像画の表 水無瀬神宮功蔵 水無瀬神宮
p.156 (10行目) 室町幕府九州の南朝勢力は制圧されます。 室町幕府により九州の南朝勢力は制圧されます。
p.203 (5行目) 結[もやい]とよばれる。 結[もやい]とよばれます。
p.204 (15行目) 思い年貢の負担ありませんでしたが、 思い年貢の負担ありませんでしたが、
p.206 OUTPUT 391 乗級貝ヤン=ヨーステン 乗組員ヤン=ヨーステン
p.215 (17行目) 綱吉自信 綱吉自身
p.216 (25行目) 後を継いだ6代将軍家継は 後を継いだ7代将軍家継は
p.246 洋学(蘭学)の表 大槻玄沢おおきげんたく 大槻玄沢おおつきげんたく
p.260 OUTPUT 517 ④・・・解体新書』 ④・・・解体新書』
p.263 OUTPUT 526

①・・・西洋婦人図

②・・・ターヘル=アナトミア』

③・・・暦象新書

①・・・西洋婦人図

②・・・ターヘル=アナトミア』

③・・・暦象新書

p.324 桂園時代の表 1906.1 第2次西園寺内閣 1906.1 第1次西園寺内閣
p.333 OUTPUT 667 1884年には綿糸の国内生産量は輸入量を上まわった。 1890年には綿糸の国内生産量は輸入量を上まわった。
p.342 OUTPUT 694 浮雲を書き 浮雲を書き
p.402 (23行目) 過度経済力集中排除法 (下線部が赤字) 過度経済力集中排除法が (下線部が赤字)
p.414 OUTPUT 845 孀婦岩の南の南方諸島 (下線部が太字) 孀婦岩の南の南方諸島
p.432 (12行目) 1 田中角栄 1 田中角栄内閣
p.464 772解答 日本全権代表の松岡洋右 ②日本全権代表の松岡洋右

 

 

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夏目漱石 『行人』 感想

 

「兄さんに対して僕がこんな事をいうとはなはだ失礼かもしれませんがね。ひとの心なんて、いくら学問をしたって、研究をしたって、解りっこないだろうと僕は思うんです。兄さんは僕よりも偉い学者だからもとより其処に気が付いていらっしゃるでしょうけれども、いくら親しい親子だって兄弟だって、心と心はただ通じているような気持がするだけで、実際に向う此方とは身体が離れている通り心も離れているんだから仕様がないじゃありませんか」

ひとの心は外から研究は出来る。けれどもその心にって見る事は出来ない。その位の事なら己だって心得ている積だ」

 兄は吐き出すように、又ものうそうにこう云った。

 

夏目漱石著 『行人』 81刷改版,新潮社,1993,p.125

 

ほんとそう思う。自分の心と人の心の間には、決して越えられない次元の壁的なものがある。

一郎もそれを分かっているつもりなんだけど、どうしても納得することができない。だから、理性によってこの壁を越えようとする。実験とか観察とかそこからの演繹とかで、妻の心を知ろうとする。そして、やっぱり分からなくて、精神を参らせてしまう。

 

一郎は、妻が自分をどう思っているのか、死ぬほど気にしている。けど、一郎自身が妻をどう思ってるのかは、殆ど話題になってないように思えた。

「妻に愛されているのか本当のとこは分からないけど、少なくとも自分は妻を愛している」くらいで我慢しておくべきだと思った。

 

・・・

 

二郎と一郎の妻、直が一緒に宿に泊まるシーンは、大変にどきどきした。

 

兄の妻と二人で出かけるというだけでも危なげ雰囲気なのに、嵐で帰れないとか、宿が停電になるとか、まずいでしょ。

 

自分は電気燈の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りに又「姉さん」と呼んだ。

「何よ」

彼女の答は何だか蒼蠅うるさそうであった

「居るんですか」

「居るわ貴方。人間ですもの。うそだと思うなら此処へ来て手でさわって御覧なさい」

 自分は手捜てさぐりに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれ程の度胸がなかった。そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした。

「姉さん何かしているんですか」と聞いた。

「ええ」

「何をしているんですか」と再び聞いた。

「先刻下女が浴衣を持って来たから、着替えようと思って、今帯を解いている所です」と嫂が答えた。

前掲書 p.158,159

 

いやいや、直さん、見えないからって目の前で着替えるの?あと、一瞬だけ電気が点いた時に、

 

自分は電気燈がぱっと明るくなった瞬間に嫂が、何時の間にか薄く化粧を施したというなまめかしい事実を見て取った。

p.160

 

え、どういうつもり?どうなっちゃうの?で、いよいよ布団を並べて寝て、その翌朝、

 

 二人はく寐なかったから、夢から覚めたという心地はしなかった。ただ床を離れるやいなや魔から覚めたという感じがした程、空はなまめく染められていた。

 自分は朝飯あさめしぜんに向いながら、ひさしを漏れる明らかな光を見て、急に気分の変化に心付いた。従って向い合っている嫂の姿が昨夕ゆうべの嫂とは全く異なるような心持もした。今朝見ると彼女の眼に何処どこといって浪漫ロマン的な光はしていなかった。

前掲書 p.166

 

能く寐なかったって、嵐だったからってことだよね??浪漫的って、寝る前の直さんの態度のことだよね??そのあとの話じゃないよね??二郎、お前はっきり言え!

 

と、興奮してしまった。

 

・・・

 

全体をとおして、描写が本当にいいなあと思った。心理描写も風景描写も、凄く好きだ。

 

漱石もっと読みます。

 

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十川信介『夏目漱石』 感想

これから夏目漱石をちゃんと読んでいきたい。その予習のために読みました。

 

作品ごとに簡潔な評論が書かれているんだけど、ここは予習じゃなくて復習で読むべきだなと思った。人間関係が複雑なのに粗筋の紹介が簡単すぎて、どんな話かよく分からない。作品を読んだことがある人向けに書かれているように感じた。あとで再読したい。

 

と、理解が及ばなかったところもあったけど、漱石の人となりや人生観を知れたのはよかった。例えば、

一旦起ったことは、表面に出なくとも生き続け、突如として現れることもあるだろう。それは「過去」に対する漱石の考えでもあった。

十川信介著 『夏目漱石』 岩波書店,2016,p.228

といったことは、今後作品を読んでいくヒントになりそう。

 

あと印象に残ったのが、漱石に対する著者の態度。愛のある遠慮のなさが面白かった。ロンドン留学中のエピソードで、

漱石は)シェイクスピア学者のクレイグの個人指導を受けることになった。「一時間 5 shiling ニテ約束ス 面白キ爺ナリ」と漱石は記している。変人同士で気が合ったのだろう。

十川信介著 『夏目漱石』 岩波書店,2016,p.66 括弧内はブログ筆者注

とか、奥さんと娘さんの写真について、

「御ふた方の御肖像をストーヴの上へ飾つて置た」ら、「下宿の神さんと妹」(ステロードの宿)が見て、「大変可愛らしい」とお世辞を言ったので、「何日本ぢやこんなのは皆御多福の部類」で、美しいのはもっと沢山いると「愛国的気焔を吐いてやつた」。上機嫌である。

十川信介著 『夏目漱石』 岩波書店,2016,p.97

とか、笑ってしまった。

 

先日『坊っちゃん』を読んだ。次は『行人』を読みます。

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「本当の戦争の話」と「本当でない戦争の話」 ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』感想 

「本当の戦争の話」とは”無意味”である

そう思った。

この「無意味」とは「空虚」というニュアンスではない。

逆に、あらゆる意味の混淆、意味の闇鍋状態による、無意味さなのだ。

絵具をごちゃごちゃに混ぜた後のヘドロのような色、そんな無意味さである。

 

 ミッチェル・サンダーズは正しかった。少なくとも一般的な兵隊にとって、戦争は決して晴れることのない深く不気味な灰色の霧の如きものである。彼らはそれを精神的な感触として知る。そこには明確なものは何ひとつとしてないのだ。何もかもがぐるぐると渦を巻いて見える。旧来の規則はもうその効力を失っている。旧来の真理はもはや真理ではない。誤ったものの中に正しきものがどくどくと注ぎこまれている。カオスの中に秩序が混ざりこんでいる。憎しみの中に愛が、美の中に醜さが、アナーキーの中に法が、野蛮の中に文明が。霧は君をすっぽりと吞み込んでしまう。自分が何処にいるのか、何故そこにいるのか、君にはわからない。ただひとつはっきりとわかるのは、どこまで行っても解かれることのないその二重性だけだ。

ティム・オブライエン著,村上春樹訳『本当の戦争の話をしよう,本当の戦争の話をしよう』 文藝春秋,1998,p.135

 

一つ一つの短編を読み終わったあと何だか呆然としてしまうのは、この無意味さのためだと思った。

 

「本当でない戦争の話」とは”救済”である

 本書の最後に収められた短編「死者の生命」は次の一節からはじまる。

 

 しかしこれもまた真実である―お話ストーリーは我々を救済することができるのだ。

ティム・オブライエン著,村上春樹訳『本当の戦争の話をしよう,死者の生命』 文藝春秋,1998,p.361

 

 「お話ストーリー」とは「本当でない戦争の話」のことだと思う。

 人が経験を物語る時、そこに意味を創出せずにはいられない。だから戦争について語ると、そこでの徹底的に無意味な経験にすら意味を見出そうとしてしまう。すると「本当の戦争の話」ではなくなってしまう。

 だけど、意味を創出された「本当でない戦争の話」にこそ救済はあるのだ。ティム・オブライエンは救済のためにこの話を書いたのだと思う。死んでいった人々と、自分自身を救い出すために。

 

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五木寛之『親鸞』感想 「分かる」から「信じる」へ

 

ネタばれあります!

 

面白くて一気に読んだ。

どんな話かというと、

 

親鸞が「分かる」ことを諦めて、「信じる」ことにした話

 

だと思った。

 

親鸞は12才で比叡山に入る。なぜか。知りたいことがあったからだ。

 

十悪五逆じゅうあくごぎゃく極悪人ごくあくにん、あの平四郎へいしろうのごときやつでさえ、ひとたび弥陀みだの名をよべば、本当に救われると思うか>

 分かりませぬ、とそのとき忠範ただのり(引用者注:親鸞の幼名)は答えた。頭のなかが混乱して、どう考えていいかわからなかったのだ。これは大事なことだぞ、と法螺房ほうらぼうは念をおすようにいった。

<その答えを本気でみいだしたいと思うか>

 はい、と忠範はきっぱりうなずいたのだ。すると法螺房はいった。

<ならば、いくしかない、あの山へ―>

 あの山へ、という言葉が、木魂こだまのようにずっと忠範の体の奥で反響しつづけている。あの山へ。あの山へ。あの山へ―。

五木寛之著 『親鸞:上』 講談社,2011,p.130

 

末法の世。人々は生きるために罪を犯さずにいられない。地獄のような現世を罪を犯して生き、その罪のため死後地獄に落ちる。そこに救いはないのか。

親鸞は世の下層の人々に深く共感を寄せている。だから、これは切実な問いになったのだ。

 

***

 

親鸞比叡山で厳しい修行を行う。寝る間を惜しんで学問に励む。だが、一向に答えが得られない。親鸞の問いは「仏とは何か、真の自分とは何か」という、より根本的なものとなっていく。

 

19才の時、一日三千回の五体投地を行って仏の姿を見るという「好相行」に挑む。精神と肉体を限界まで追い込んだ親鸞は、師に問う。

 

ぶつといい、ほとけという。如来にょらいといい、さとりという。それはいったいなんなのか。そして、なぜこの世には仏が必要なのか。どうして人びとは仏を求めるのか。法院ほういんさま、このようなことを考えることは、狂うておるのでございましょうか。

五木寛之著 『親鸞:上』 講談社,2011,p.284

 

師は答える。

 

「そなたは狂うてはおらぬ」

音覚法印おんかくほういんは静かな声でいった。

「ただ、いまそなたが考えているようなことを、どこまでもつきつめていこうとするなら、そなたはまちがいなく狂うであろう」

(中略)

「真実のほとけに会おうとすれば、当然、なみの覚悟ではできぬ。狂うところまでつきつめてこそ、真実がつかめるのじゃ。しかし、範宴(引用者注:当時の親鸞の名)、ここのところをよくきくがよい。狂うてしもうてはだめなのだ。その寸前で引き返す勇気が必要なのじゃ。命をかけるのはよい。だが、命を捨ててはならぬ。

五木寛之著 『親鸞:上』 講談社,2011,p.286-287

 

結局、親鸞はこの行で仏の姿を見ることができずに終わる。

 

***

 

さらに10年の修行を行い、29才。夢のお告げに従って、都の六角堂に参籠することにした親鸞は、浅からぬ縁を持っていた女性から誘いを受ける。親鸞はそれを拒むことができない。事態が急変し、結果的にことに及ぶことはなかったが、何もなければ女犯の罪をおかすところであった。

厳しい修行を行っても、煩悩は消えなかったのだ。それだけではない。

 

いまはわが身の浅ましさ、罪ぶかさに、ただただあきれはてるばかりです。ふたたび同じことがおこれば、わたしはまた同じ衝動に身をまかせるかもしれない。わたしの心に巣くう得体えたいの知れない煩悩は、どれほど懺悔ざんげしても、どれほど修行をかさねても、とうてい根絶ねだやしにすることはできないのです。

五木寛之著 『親鸞:下』 講談社,2011,p.11

 

と、今後も同じ過ちを行うかもしれないと告白する。

 

これまで20年間。いくら修行しても煩悩は消えず、いくら学問をしても仏は分からなかった。そして、転機が訪れる。親鸞は六角堂での参篭中、聖徳太子の声を聞く。

 

行者宿報設女犯ぎょうじゃしゅくほうせつにょぼん

我成玉女身被犯がじょうぎょくにょしんぴぼん

一生之間能荘厳いっしょうしけんのうしょうごん

臨終引導生極楽りんじゅういんどうしょうごくらく

 

行者宿報設女犯ぎょうじゃしゅくほうせつにょぼん、とは、たとえ煩悩ぼんのうち切れぬおろかなそなたであっても、と受けとりました。我成玉女身被犯がじょうぎょくにょしんぴぼん、とは、決して見放さずともに生きるぞ、とおっしゃってくださったのだと思います

五木寛之著 『親鸞:下』 講談社,2011,p.21

 

こうして、親鸞は仏を理解しようとすること、そのために煩悩を捨てることを諦める。

そのかわり、仏を信じることにしたのだ。

 

なぜ仏を信じるのか。そこに理由はないのだと思う。

強いて言うならば、仏が自分を信じているから、自分が仏を信じるのだろう。

 

***

 

アクションありロマンスありで、エンタメとしても楽しめた。

キャラも立っていてよい。

個人的に気になっている後白河法皇も出てくる。次のように評されてて、分かる!となった。

 

「そう。ときにはやさしく、またときにはずるがしこく、ときにはすごみをおびて、そうかと思えばわらべのように無邪気で、しかも好色で、残酷で、悲しげな、ああ、なんといえばよいのでありましょう。そしてこの犬丸めは、その目にいられてしまったのです」

五木寛之著 『親鸞:上』 講談社,2011,p.135

 

あと、「昔すごい切れ者だったけど、今は角がとれて丸くなっている。だけど、かつての片鱗をときおり覗かせるじいさん」というキャラが好きなので、法然上人も良い。

 

***

 

以前、歎異抄を読んだ感想↓

mura-sou.hatenablog.com

 

参考文献

 

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