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『歎異抄』と『死にいたる病』が似てると思った話

似てると思ったんです!

 

 

似てること1 救われることを信じること による救い

この『歎異抄』を読んだ。なんと訳は関西弁です。

歎異抄 (光文社古典新訳文庫)

歎異抄 (光文社古典新訳文庫)

 

 

浄土真宗の開祖 親鸞の教えを、弟子の唯円(ゆいえん)が記した書物。

 

浄土真宗の核となる教えに、

「他力本願」

がある。

 

仏教とは、成仏=悟りを開くことを目標とする宗教だ。

滝に打たれるのも、瞑想するのも、座禅を組むのも、成仏のため。

宗派によって色々とメソッドがある。

 

では、浄土真宗では成仏のため何をするか。親鸞は言う。

 

アミダ(阿弥陀)はんの誓いの不思議な力に助けてもろうて、極楽往生は、こりゃあ、間違いなしと信じて、「ナンマンダブ(南無阿弥陀仏)、ナンマンダブ(南無阿弥陀仏)」と、よう、となえようと思う心が起こったときには、もうすでにお助けにあずかり、アミダはんにお引きうけいただき、(もう)捨てられまへん(=摂取不捨)というご利益にあずかっとるんや。

出典元『歎異抄

 

生命あるもの全てを救うという誓いをたてた仏、阿弥陀仏、その誓いの成就を信じること。その信により、成仏が決定する。

罪深い一般人が成仏するためには、これが唯一の方法であると説く。

これが「他力本願」という教えだ。

  

歎異抄』を読んでちょっと後に、キルケゴールの『死にいたる病』を読んだんだけど、 いろいろ、似てるところがあるなと思った。

 

読書メモ↓ 

mura-sou.hatenablog.com

 

この本は、死にいたる病=絶望を主題とした本だ。

絶望という病は、自分の力ではどうすることもできない。深く認識すればするほど、絶望も深くなる一方である。

 

では、この絶望から解放されるにはどうすればよいか。神を信じるしかない。

キリスト教の神は愛であり、我々を救おうとしている。

 

この人間が現に神の前にあり、いつなんどきでも好きなときに神と語ることができ、確実に神に聞いてもらえるのである、要するに、この人間にごく心安く神といっしょに生きることが申し出られているのである!

そればかりではない、この人間のために、またこの人間のゆえに、神は世に来たり、人の子として生まれ、難を受け、死にたもうのである。

そしてこの受難の神が、この神が、この人間に向かって、どうか救助の申し出を受け入れてくれるようにと、ほとんど乞いかつ嘆願していられるのである。

出典元『死にいたる病』

 

両方とも、 

・我々は無力で、自身の力では救われない。

・「我々を救おうとしている神や仏に救われることを信じる」ことで救われる。

という考え方なのだ。

 

 

似てること2 信じることは説明できない

信じるものは救われると言われても、ほんまか?と思うのが人情だ。

これに対して、両者は同じスタンスをとる。

「信じることは、理性に説明できない。」

 

親鸞は次のように述べる。

 

この親鸞には、ただ「ナンマンダブ」と念仏して、アミダはんに救うてもらいなはれちゅう、法然聖人はんの教えてくれはったことを信じとるだけで、別に、ほかにはなあんにも仔細な理由はあらしまへん。

出典元『歎異抄

 

親鸞は、師匠法然の教えを信じている。そこに理由や説明はなく、ただ信じるのだ。

 

キルケゴールも、信じることを説明しない。というより、説明しえないものと考える。信仰は、理性を超越するという立場であり、次のように言う。

 

つまずきということこそ、思弁に対するキリスト教的なものの防壁

出典元『死にいる病』

 

”つまずき”というのは、神を信じる際の「本当か?」という気持ちで、この”つまづき”を乗り越えることが信じるということだ。

思弁=理性では、この”つまづき”という防壁を突破できず、信仰の世界に至れないと述べている。

 

 

似てること3 個人と救い主 一対一の関係

個人と救い主が、一対一の関係にあるということも共通点だ。

親鸞聖人はんがいっつもいうていやはったのは、アミダはんの長い間考えに考えはった願ちゅうものをよくよく考えてみれば、

「こりゃあホンマにこの愚禿親鸞ひとりのための願いいうてもええほどや。そやから、ぎょうさんの業を抱えとる身であるのに、それを助けようと思うてくれはる本願がどないにありがたく、かたじけないこっちゃないか」

出典元『歎異抄

 

キリスト教は教える、この単独な人間が、したがって、男であろうと、女であろうと、女中であろうと、大臣であろうと、商人であろうと、理髪師であろうと、学生であろうと、そのほか何であろうと、とにかく何であれ単独な人間めいめいが、この単独な人間が、現に神の前にある、と。

出典元『死にいたる病』

 

これは、「似てること2 信じることは説明できない」と関係がある。理性による説明とは、「AさんとBさん」といった、他者同士が共通の認識を持つためのものだ。

それが不可能であるからこそ、Aさんは、誰かを介することなく、直接に救い主と、さしで対面することになる。

 

 

おわりに

もちろん似てないこともある。例えば、親鸞の方の救いは、死後に極楽往生して悟りが開けるという意味。一方キルケゴールは、生きているうちに絶望から解放されることを意味する。

 

なんだけど、やっぱり似てて、面白かった。

何で似てるのかは、これから考えます。。

 

 

参考

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

 

 

仏教入門 (岩波ジュニア新書)

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  • 作者:松尾 剛次
  • 発売日: 1999/06/21
  • メディア: 新書
 

 

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