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『源氏物語』の抄訳を読んだ感想

源氏物語各帖の重要な場面が原文で抜粋され、注と現代語訳が付されている。そのあとに研究者の方の解説が続く。解題や紫式部の簡単な評伝も入っていて、素人にも楽しく読めた。

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野村精一氏の若菜下 帖についての解説が印象に残った。この帖の時点で源氏は47歳、外面的には栄誉の絶頂にある。だが、彼が自身の人生を回想したとき、そこに幸福感はみられない。それは何故か。

源氏の言葉、

「まづは思ふ人にさまざまおくれ、残りとまれる齢の末にも、飽かず悲しと思ふこと多く……」

(第一、私を愛してくれた人たちにどんどん先立たれ、わずかにとり残されたこんな年になっても、満ち足りた思いもなく悲しいことだと思うようなことばかりで、…)

について、野村氏は次のように述べている。

この「飽かず」という副詞句は、ある種の強烈な音調を帯びて、この源氏の奥深い内部と、いま語る述懐ともいうべき回想のことばを結んでいる。

野村精一.”若菜上~幻”.鑑賞日本の古典6 源氏物語.阿部秋生他著.尚学図書,1979,p.247

源氏は本質的・存在論的苦悩として「飽くこと」=満ち足りることができない業を負っている。何に飽かないのか。愛である。もっとも根源にあるのは亡き母桐壺への愛であり、さらにその形代としての藤壺への愛である。そしてこの時代、愛は仏教の思惟の枠内では、現世への執着をもたらす、罪である。愛を求める程に救済の彼岸から遠ざかってしまう。

この解説を読んで、源氏が数々の女性と関係を持つ理由が分かった。楽しみのためではなく、渇きをいやすためなのだ。だけど一向にいやされない。なぜなら、それが彼の宿命なのだから。

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阿部秋生氏の書いた紫式部の評伝では、次の部分が印象に残った。夫 藤原宣孝との死別について、紫式部は歌を詠んでいる。

 見し人の煙となりし夕より名ぞむつましきしほがまの浦

 消えぬ間の身をも知る知る朝顔の露とあらそふ世を嘆くかな

これについて阿部氏は次のように述べる。

二首の歌には、いわゆる「無常」という実感だけしか詠まれていない。その無常の事実をもう一度眺めなおして、その実態を問いなおすところはまだない。その余裕がないのだろう。

阿部秋生.”紫式部”.鑑賞日本の古典6 源氏物語.阿部秋生他著.尚学図書,1979,p.499

この無常を問い直す、という表現が心に残った。世が無常であることを悟るのは簡単なのだ。特に何もしなくてよい。30年くらい生きれば嫌でも無常を実感できる。問題はそこから。悟った無常を問い直し、そして無常を前提として如何に生きるか。これが重大事なのである。

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意味が分からないけど、頑張って原文も読んだ。古文も読めれば楽しいだろうなあと思う。英語がある程度読めるようになったら、今度は古文を勉強しようかな。(いつになるのだろう…)