書きたいことを書きたいだけ

書きたいことを書きたいだけ書くブログ

五木寛之『親鸞』感想 「分かる」から「信じる」へ

 

ネタばれあります!

 

面白くて一気に読んだ。

どんな話かというと、

 

親鸞が「分かる」ことを諦めて、「信じる」ことにした話

 

だと思った。

 

親鸞は12才で比叡山に入る。なぜか。知りたいことがあったからだ。

 

十悪五逆じゅうあくごぎゃく極悪人ごくあくにん、あの平四郎へいしろうのごときやつでさえ、ひとたび弥陀みだの名をよべば、本当に救われると思うか>

 分かりませぬ、とそのとき忠範ただのり(引用者注:親鸞の幼名)は答えた。頭のなかが混乱して、どう考えていいかわからなかったのだ。これは大事なことだぞ、と法螺房ほうらぼうは念をおすようにいった。

<その答えを本気でみいだしたいと思うか>

 はい、と忠範はきっぱりうなずいたのだ。すると法螺房はいった。

<ならば、いくしかない、あの山へ―>

 あの山へ、という言葉が、木魂こだまのようにずっと忠範の体の奥で反響しつづけている。あの山へ。あの山へ。あの山へ―。

五木寛之著 『親鸞:上』 講談社,2011,p.130

 

末法の世。人々は生きるために罪を犯さずにいられない。地獄のような現世を罪を犯して生き、その罪のため死後地獄に落ちる。そこに救いはないのか。

親鸞は世の下層の人々に深く共感を寄せている。だから、これは切実な問いになったのだ。

 

***

 

親鸞比叡山で厳しい修行を行う。寝る間を惜しんで学問に励む。だが、一向に答えが得られない。親鸞の問いは「仏とは何か、真の自分とは何か」という、より根本的なものとなっていく。

 

19才の時、一日三千回の五体投地を行って仏の姿を見るという「好相行」に挑む。精神と肉体を限界まで追い込んだ親鸞は、師に問う。

 

ぶつといい、ほとけという。如来にょらいといい、さとりという。それはいったいなんなのか。そして、なぜこの世には仏が必要なのか。どうして人びとは仏を求めるのか。法院ほういんさま、このようなことを考えることは、狂うておるのでございましょうか。

五木寛之著 『親鸞:上』 講談社,2011,p.284

 

師は答える。

 

「そなたは狂うてはおらぬ」

音覚法印おんかくほういんは静かな声でいった。

「ただ、いまそなたが考えているようなことを、どこまでもつきつめていこうとするなら、そなたはまちがいなく狂うであろう」

(中略)

「真実のほとけに会おうとすれば、当然、なみの覚悟ではできぬ。狂うところまでつきつめてこそ、真実がつかめるのじゃ。しかし、範宴(引用者注:当時の親鸞の名)、ここのところをよくきくがよい。狂うてしもうてはだめなのだ。その寸前で引き返す勇気が必要なのじゃ。命をかけるのはよい。だが、命を捨ててはならぬ。

五木寛之著 『親鸞:上』 講談社,2011,p.286-287

 

結局、親鸞はこの行で仏の姿を見ることができずに終わる。

 

***

 

さらに10年の修行を行い、29才。夢のお告げに従って、都の六角堂に参籠することにした親鸞は、浅からぬ縁を持っていた女性から誘いを受ける。親鸞はそれを拒むことができない。事態が急変し、結果的にことに及ぶことはなかったが、何もなければ女犯の罪をおかすところであった。

厳しい修行を行っても、煩悩は消えなかったのだ。それだけではない。

 

いまはわが身の浅ましさ、罪ぶかさに、ただただあきれはてるばかりです。ふたたび同じことがおこれば、わたしはまた同じ衝動に身をまかせるかもしれない。わたしの心に巣くう得体えたいの知れない煩悩は、どれほど懺悔ざんげしても、どれほど修行をかさねても、とうてい根絶ねだやしにすることはできないのです。

五木寛之著 『親鸞:下』 講談社,2011,p.11

 

と、今後も同じ過ちを行うかもしれないと告白する。

 

これまで20年間。いくら修行しても煩悩は消えず、いくら学問をしても仏は分からなかった。そして、転機が訪れる。親鸞は六角堂での参篭中、聖徳太子の声を聞く。

 

行者宿報設女犯ぎょうじゃしゅくほうせつにょぼん

我成玉女身被犯がじょうぎょくにょしんぴぼん

一生之間能荘厳いっしょうしけんのうしょうごん

臨終引導生極楽りんじゅういんどうしょうごくらく

 

行者宿報設女犯ぎょうじゃしゅくほうせつにょぼん、とは、たとえ煩悩ぼんのうち切れぬおろかなそなたであっても、と受けとりました。我成玉女身被犯がじょうぎょくにょしんぴぼん、とは、決して見放さずともに生きるぞ、とおっしゃってくださったのだと思います

五木寛之著 『親鸞:下』 講談社,2011,p.21

 

こうして、親鸞は仏を理解しようとすること、そのために煩悩を捨てることを諦める。

そのかわり、仏を信じることにしたのだ。

 

なぜ仏を信じるのか。そこに理由はないのだと思う。

強いて言うならば、仏が自分を信じているから、自分が仏を信じるのだろう。

 

***

 

アクションありロマンスありで、エンタメとしても楽しめた。

キャラも立っていてよい。

個人的に気になっている後白河法皇も出てくる。次のように評されてて、分かる!となった。

 

「そう。ときにはやさしく、またときにはずるがしこく、ときにはすごみをおびて、そうかと思えばわらべのように無邪気で、しかも好色で、残酷で、悲しげな、ああ、なんといえばよいのでありましょう。そしてこの犬丸めは、その目にいられてしまったのです」

五木寛之著 『親鸞:上』 講談社,2011,p.135

 

あと、「昔すごい切れ者だったけど、今は角がとれて丸くなっている。だけど、かつての片鱗をときおり覗かせるじいさん」というキャラが好きなので、法然上人も良い。

 

***

 

以前、歎異抄を読んだ感想↓

mura-sou.hatenablog.com

 

参考文献

 

mura-sou.hatenablog.com