ネタばれあります!
面白くて一気に読んだ。
どんな話かというと、
親鸞が「分かる」ことを諦めて、「信じる」ことにした話
だと思った。
親鸞は12才で比叡山に入る。なぜか。知りたいことがあったからだ。
<
十悪五逆 の極悪人 、あの平四郎 のごとき奴 でさえ、ひとたび弥陀 の名をよべば、本当に救われると思うか>分かりませぬ、とそのとき
忠範 (引用者注:親鸞の幼名)は答えた。頭のなかが混乱して、どう考えていいかわからなかったのだ。これは大事なことだぞ、と法螺房 は念をおすようにいった。<その答えを本気でみいだしたいと思うか>
はい、と忠範はきっぱりうなずいたのだ。すると法螺房はいった。
<ならば、いくしかない、あの山へ―>
あの山へ、という言葉が、
木魂 のようにずっと忠範の体の奥で反響しつづけている。あの山へ。あの山へ。あの山へ―。
末法の世。人々は生きるために罪を犯さずにいられない。地獄のような現世を罪を犯して生き、その罪のため死後地獄に落ちる。そこに救いはないのか。
親鸞は世の下層の人々に深く共感を寄せている。だから、これは切実な問いになったのだ。
***
親鸞は比叡山で厳しい修行を行う。寝る間を惜しんで学問に励む。だが、一向に答えが得られない。親鸞の問いは「仏とは何か、真の自分とは何か」という、より根本的なものとなっていく。
19才の時、一日三千回の五体投地を行って仏の姿を見るという「好相行」に挑む。精神と肉体を限界まで追い込んだ親鸞は、師に問う。
「
仏 といい、仏 という。如来 といい、悟 りという。それはいったいなんなのか。そして、なぜこの世には仏が必要なのか。どうして人びとは仏を求めるのか。法院 さま、このようなことを考えることは、狂うておるのでございましょうか。
師は答える。
「そなたは狂うてはおらぬ」
音覚法印 は静かな声でいった。「ただ、いまそなたが考えているようなことを、どこまでもつきつめていこうとするなら、そなたはまちがいなく狂うであろう」
(中略)
「真実の
仏 に会おうとすれば、当然、なみの覚悟ではできぬ。狂うところまでつきつめてこそ、真実がつかめるのじゃ。しかし、範宴(引用者注:当時の親鸞の名)、ここのところをよくきくがよい。狂うてしもうてはだめなのだ。その寸前で引き返す勇気が必要なのじゃ。命をかけるのはよい。だが、命を捨ててはならぬ。
結局、親鸞はこの行で仏の姿を見ることができずに終わる。
***
さらに10年の修行を行い、29才。夢のお告げに従って、都の六角堂に参籠することにした親鸞は、浅からぬ縁を持っていた女性から誘いを受ける。親鸞はそれを拒むことができない。事態が急変し、結果的にことに及ぶことはなかったが、何もなければ女犯の罪をおかすところであった。
厳しい修行を行っても、煩悩は消えなかったのだ。それだけではない。
いまはわが身の浅ましさ、罪ぶかさに、ただただ
呆 れはてるばかりです。ふたたび同じことがおこれば、わたしはまた同じ衝動に身をまかせるかもしれない。わたしの心に巣くう得体 の知れない煩悩は、どれほど懺悔 しても、どれほど修行をかさねても、とうてい根絶 やしにすることはできないのです。
と、今後も同じ過ちを行うかもしれないと告白する。
これまで20年間。いくら修行しても煩悩は消えず、いくら学問をしても仏は分からなかった。そして、転機が訪れる。親鸞は六角堂での参篭中、聖徳太子の声を聞く。
行者宿報設女犯 、とは、たとえ煩悩 を断 ち切れぬ愚 かなそなたであっても、と受けとりました。我成玉女身被犯 、とは、決して見放さずともに生きるぞ、とおっしゃってくださったのだと思います
こうして、親鸞は仏を理解しようとすること、そのために煩悩を捨てることを諦める。
そのかわり、仏を信じることにしたのだ。
なぜ仏を信じるのか。そこに理由はないのだと思う。
強いて言うならば、仏が自分を信じているから、自分が仏を信じるのだろう。
***
アクションありロマンスありで、エンタメとしても楽しめた。
キャラも立っていてよい。
個人的に気になっている後白河法皇も出てくる。次のように評されてて、分かる!となった。
「そう。ときにはやさしく、またときにはずる
賢 く、ときには凄 みをおびて、そうかと思えば童 のように無邪気で、しかも好色で、残酷で、悲しげな、ああ、なんといえばよいのでありましょう。そしてこの犬丸めは、その目に魅 いられてしまったのです」
あと、「昔すごい切れ者だったけど、今は角がとれて丸くなっている。だけど、かつての片鱗をときおり覗かせるじいさん」というキャラが好きなので、法然上人も良い。
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以前、歎異抄を読んだ感想↓
参考文献