最近、私生活に絶望気味だったので読みました。
簡単な解説のつもりの読書メモ、図多めです。
1.キルケゴールの考える「自己」
キルケゴールは、本書冒頭で、「自己」を次のように述べている。
自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。
あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。
出典元:前掲書
図だとこんな感じ。
左の図1は、〇と□が線①で結ばれている。この図で、〇と□が関係していることを示す。線①は「〇と□の関係」を示す。
右の図2には、図1に線②が加えてられている。この線②も「何かと何かの関係」を示す。何と何の関係か。
線②は、線①から出発して、線①に戻ってくる。
つまり線②は、「線①と、線①自身の関係」を示す。
この線②がキルケゴールの「自己」の定義に該当する。先の引用文に追記すると、以下のとおりとなる。
「あるいは、その関係(線①)において、その関係(線①)がそれ自身(線①)に関係するということ、そのこと(線②)である。」
ところで、線①はただの線だけど、線②は矢印となっている。
これは、自己の動的な性質を表している。矢印が常にぐるぐる回って、フィードバックをかけているイメージである。
そして、この自己により、〇と□の関係が動的に変化する。
例えば、〇の方が大きくなったり、□の方が大きくなったりする。
キルケゴールはさらにこう述べている。
自己は、自分で自己自身を措定したのであるか、それとも或る他者によって措定されてあるのであるか、そのいずれかでなければならない。
出典元:前掲書
措定という用語については、辞書で調べても抽象的で、イメージしきれてないのが正直なところ。とりあえず「存在させる」といった雰囲気で理解している。
この措定の働きを赤い矢印③と④で示す。
図4は、自己が、自分で自己自身を措定する場合を示す。
図5は、自己が、或る他者によって措定されている場合を示す。
或る他者とは、(キリスト教の)神であり、これがキルケゴールの人間観の基本をなす。
最後に、〇と□には何が入るのか。次のようなものである。
無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、自然と必然。
2.絶望について
2-1.絶望の状態とは
絶望とは、次の状態である。
絶望は、それ自身に関係する綜合の関係における齟齬である。
言い換えると、〇と□のバランスが崩れた状態を、自己が維持し続けることである。(図6)
2-2.絶望は死にいたる病であることと、その意味
書名の死にいたる病とは、絶望のことである。
ただし、肉体的に死ぬ(自殺にいたる)という意味ではない。
絶望は、精神の病である。
絶望が欲することは、精神=自己自身を食い尽くして、無にすること、死ぬことだが、
精神は永久であり(※)、無になることはない。
このことに絶望者は絶望し、これが無限に続く。現在進行形で死を体験し続ける。
これが、死にいたる病の意味である。
(※)精神が永久である理由
はっきりとは読み取れなかった。ブログの筆者の解釈は次のとおり。
精神=自己は図の矢印②である。それで、いつもくるくる回っている。
ある人が寝たり、気絶したりしてる時、あるいは、生まれる前や死んだ後では、
その人に精神はなく、矢印②の回転は止まる。
その場合、その人にとって時間の概念はなく、時計の針も止まっている。
だから、その人にとって、精神は永久である、ということと解釈した。
(もしかしたら、全然違って、キリスト教的な解釈なのかもしれない。神の前では魂は滅びない、のような)
2-3.絶望の種類
まず、〇と□に何が入るか、そしてどちらが過大となっているか、という分類で、4つの種類の絶望が挙げられている。
・〇と□が無限性と有限性の場合
・・無限性が過大なときの絶望
→想像的で限界がなくなり、自己が希薄化されていく。
・・有限性が過大なときの絶望
→全く有限化され、ひとつの自己であるかわりに、一律な人間になり自己を失う。
・〇と□が可能性と必然性の場合
・・可能性が過大なときの絶望
→可能性ばかりが大きくなり、何一つ現実的とならない。
・・必然性が過大なときの絶望
→一切が必然となり、自己を失う。
次に、意識という観点から、絶望を4種類に分類する。
分かりやすいようにレベル1~レベル4と名付ける(ブログ筆者が)。レベルが上がるほど、絶望度が高い。
レベル1:自己があることを知らず、絶望であることも知らない絶望
図7について、青い枠内が意識されている部分を示す。(以下同じ)
この種の絶望は、自己(矢印②)を知らずにいる。
自分が絶望の中にあることする知らない、絶望的な無知の状態である。
レベル2:「別の自己になりたいけどなれない、もうあきらめた」という絶望で、外部を原因と考える絶望
レベル2では、自己自身に気づいてはいる。ただし、完全な理解には及んでいない。
図8は、自己(②の矢印)の右半分だけに気づいている。
図9は、自己(②の矢印)の左半部にも気づいているが、完全ではない。(点線の青線で囲んで示す)
この場合、絶望の原因は、外部にあると認識される。また、絶望のレベルも低く、「絶望」というよりは、単なる「受難」として意識される。
レベル3:「別の自己になりたいけどなれない、もうあきらめた」という絶望で、自己自身を原因と考える絶望
レベル4:「むしろ、今の絶望状態の自己に固執してやる」という絶望
レベル3,レベル4の説明の前に、神の場所について。
図5は、自己が、或る他者=神によって措定されている状態を示していた。
この際、「或る他者」の場所として、どこか遠くをイメージし図の右上に神をおいた。
しかし、本来のイメージは図10に近い。神は、常に我々の自己の内にいる。
それを考慮にいれて、レベル3とレベル4の絶望を示すと図11となる。
両方とも、ループが閉じており、絶望の原因は外部にない。それは自己自身である。
レベル3の絶望の場合、 「絶望をする自己」の弱さに絶望をする。
レベル4はむしろ、今の絶望状態へ固執する。
3.絶望は罪であること
キルケゴールは、罪を次のように定義する。
罪とは、神の前で、あるい神の観念をいだきながら、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、もしくは、自己自身であろうと欲することである。
出典元:前掲書
注意がいるのが「神の前で」というところだ。
図12左が罪の状態だ。
我々一人ひとりは、いつ何時でも、神の前にいる。そして、神は、いつでも救いの手を差し伸べようとしている。スタンバっている。
にもかかわらず、その前において、絶望し続けていること、矢印②と矢印③のループを延々とぐるぐる回し続けていること、これが罪だ。
そして、「罪」の反対が「信仰」(図12右)である。
神に自己の措定をゆだねる、そうすれば、どんな絶望も瞬時に消滅する。〇と□のバランスが回復する。
なぜなら、神にはすべてが可能だからだ。
では、神にすべてが可能であるなら、なぜ神から助けてくれないのか。
それは、神が愛だからだ。
「私を愛せよ」という強制ができた場合、それは愛ではなくなってしまう。
全能の神にもそれだけはできず、それだけが我々一人ひとりにかかっていることなのだ。
追記 ↓『歎異抄』との比較を書きました。
参考文献