何となく、禅の目指すところが分かった気がする。
禅は、
無明 と業 の密雲に包まれて、われわれのうちに睡っている般若を目ざまそうとするのである。無明と業は知性に無条件に屈服するところから起るのだ。禅はこの状態に抗う。知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自から論理を蔑視する。
言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない、実体こそ、禅において最も高く評価されるのものなのである。
前掲書,p.7-8
人間は進化のどこかの段階で言葉を使うようになった。
コミュニケーションのために発明された言葉は便利で強力だけど、「代表するものであって、実体そのものではない」という弱点がある。
夕日を見て、ああとため息をついて、心が動く。そこに本質がある。でも、それに「美しい」という言葉を付けると、抽象化されて、一つの概念となってしまう。
一度言葉を覚えると、言葉で思考し、感情も言葉で表現し、概念の世界を生きていくことになる。言葉にすることで漏れ落ちてしまった沢山のものには気づかない。むしろ、漏れ落ちたものこそが本質なのだ。
禅が求めるのは、言葉が発明される前の人類が見ていた世界なんだと思う。人類じゃなくて個人であれば、いまだ言葉を覚えていない幼少期の、あるいはさらに遡り、羊水にプカプカ浮かんでいたころの、その時の世界のあり方を感得するのが禅の目的なのだと思った。
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ゲーム「Death Stranding」のトレーラー・ムービー冒頭で、ウィリアム・ブレイクの詩が引用されている。
TO SEE A WORLD IN A GRAIN OF SAND
AND A HEAVEN IN A WILD FLOWER
HOLD INFINITY IN THE PALM OF YOUR HAND
AND ETERNITY IN AN HOUR
神秘的でかっこよく、すごく好きだなと思って記憶に残っていた。本書の「第7章 禅と俳句」を読むんで、この詩はまったく禅、俳句の思想だと思った。
万物は未知の神秘の淵からくる。そのいずれの一つを通しても、人はその深淵をのぞき込むことができる。
前掲書,p.187
深淵を前に、人は黙することしかできない。その沈黙をかろうじて破るのが17文字の俳句なのだ。加賀千代女の
朝顔に
つるべとられて
貰らひ水
という句について、次のように述べられている。
千代女が朝顔を見たとき、彼女の
内部 のなにかが彼女に告げた、この世では認めることのできぬ美、直接あらゆる価値の源泉から咲きでている美をよそおって、それが眼の前に立っているのだと。前掲書,p.175
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「というわけで、禅は言葉以前の世界を目指すものと思うのですが、どうでしょうか」
「お前がそう思うなら、そうなんだろう」
「はあ。師匠は禅とは何か、どう思っておりますか」
「私は何も思っていないし、禅は禅だ」
「あのお、もう少し丁寧に教えてください」
「喝っ!」 「いでっ」