ネタバレあります
ハヤカワ文庫で読んだ。
まず、すこし残念だったことは、下巻で物語が失速してるように思えたこと。
後半は会話が主体になるんだけど、会話劇に耐えるほど登場人物に深みがないと思う。
獅子宮での問答に対する答えも、それまで何回も述べられていて今更感があったし、謎めかされていた二問目の問いと答えも、特段ハッとするものではなかった。
でもこれは、上巻が面白すぎたから、その反動でそう思ったのかも。
螺旋収集家と岩手の詩人の幻想的なモノローグから、謎の螺旋世界
『地球の長い午後』とか『風の谷のナウシカ』みたいな、作家の強烈な想像力によって、問答無用で別世界に連れていかれるSFが好きなので、とても面白かった。
蘇迷楼について、
小屋の背後の空のほとんどを、おそろしく巨大なものが塞いでいた。
―山⁉
いや、山というよりは、それは空に向かって開いた大地であった。大地そのものが、蒼い虚空にむかってせりあがり、広がっているのである。
天空に地平線があるのだ。
と描写されているけど、下の図みたいに大地が螺旋状になっていてるんだと思う。
あと、最近たまたま禅の本を読んでいて、そのおかげで雰囲気がつかめた気がする。
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本書の下巻に野阿梓氏の解説『「上弦の月」とかけて「それを喰べる獅子」と解く』が入っている。けっこう難しく一読しただけではよく分からなかったので、メモとして要約と考えたことを書く。
野阿氏は本書に微かな”不協和音”があると述べる。それはダモンとシェラの関係である。
ダモンとシェラは、主人公の一人である宮沢賢治の、妹への情欲を象徴している。だから物語の構成上の要求として、彼らの性愛は原始的・動物的になされなければならない。
一方で、ダモンとシェラは人語を解し言葉で思考していることから、まったくの野性な存在ではない。文化の影響を受けているし、そこには近親相姦へのタブーも含まれる。
ここに矛盾が生じる。物語からの要求として全く野性的でなければならないのに、作中に生きる人物として、それは不可能な要求なのだ。
矛盾を抱えて物語は進み、クライマックス直前で彼らは殺し合い、最期をとげる。このシーンは俗的、即物的に描かれている。神話的で聖なる場面にすることも十分できたと思われるのに何故そうしなかったのだろうか。
それは、本書が救いの書だからである。作品そのものの構造が、すなわち物語のプロセス自体が「解脱」となっている。よって、物語の最終段階の混沌との問答によって、主人公のみならず、ダモンとシェラ、あらゆる人間的存在が救済されるからである。
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ダモンとシェラが物語の要請で動いている、というのは確かに分かる。そう言われてみると、彼らだけじゃなくてラフレシアもウルガも物語のために動いて話しているように思えて、会話劇にあまり魅力が感じられなかったのはこのためかもしれない。
本書が救いの書だから、ダモンとシェラの最期が即物的に書かれている、というところはあまり解っていない。すべての存在が救われるから個別の救済は書かなかった、ということかな?