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ディズニー映画「ノートルダムの鐘」感想

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ネタばれあります!

 

まず音楽が良かった。めちゃくちゃ良かった。

ディズニー映画の音楽は良いと思ってたけど、本作は群を抜いてると思う。オープニングのカジモドの生い立ちシーンから半端ない。

コーラスが急激に盛り上がるなか、朝日をバックに全身全霊で鐘を鳴らすカジモド、その鐘たちの荘厳な響きが重なって、タイトルどんっ。鳥肌立つ。鐘の響きは魂にくる。

 

勧善懲悪の分かりやすいディズニーじゃなくて新鮮だった。主人公の恋のライバルがいいやつだったり、エスメラルダは普通にエロかったり、大人向けの映画だと思う。

特にフロロー判事はただの悪役として描かれていない。ジプシーを差別しているが、彼はそれを正しいことだと思っている。後半エスメラルダへの欲情にかられ、彼女を探し出すために民衆を弾圧するが、その際に次のように独白する。

 

ああ マリア様

あなたの清らかなお導きのもとで

今日まで私は正しく美しく

ああ それなのになぜ心が

 

ああ マリア様

乱れるのでしょう 彼女を見ただけで

彼女を求めこの身は燃え上がる

気も狂わんばかりに

 

地獄の炎がこの身を焼き

罪の炎がこの身を焦がす

悪いのは私のなのか

いやジプシーが私を虜に

悪いのは私ではない

あの悪魔は私より強いのか

 

ああ マリア様 お守り下さい

もしそれができないのならば

あのエスメラルダを私に私に与えて

私一人のものに

 

 

地獄の炎がお前を焼くぞ

もしも私を求めぬならば

 

神よ許したまえ

彼女は私のもの

それが嫌ならば炎の中に

 

出典 「ノートルダムの鐘」

 

神とそして自分自身の心に怖れを抱いている。その上でエスメラルダに責任を転嫁したり、彼女を与えてくれることを神に祈ったりする。心の弱さ、無責任さと敬虔さが同居している。人間の心の複雑さがリアルだと思った。

 

食わず嫌いで避けていたのが悔やまれる。

冒頭の5分だけでもぜひ見て欲しいです。

 

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夏目漱石『彼岸過迄』の感想

 

 前半は謎が物語を引っ張る。額にほくろのある正体不明の男を調査するなんて、まるっきり探偵小説のノリだ。蛇の頭が彫られたステッキとか、文銭占いでの奇妙なお告げとか、怪しげな小道具も雰囲気を盛りあげる。先がどうなるのか気になって読み進めた。

 後半「須永の話」からジャンルが変わったように感じた。ここからは須永と千代子、二人の心がテーマになる。理性の人須永と感情の人千代子は、お互い惹かれながらも一緒になることができない。その苦しさが書かれている。

 

* * *

 

彼岸過迄について」という漱石の前書きの中に、次のような記述がある。

かねてから自分は個々の短篇たんぺんを重ねた末に、その個々の短篇が相合あいがつして一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。

夏目漱石彼岸過迄』新潮社,2010,pp.7-8

この記述のとおり、主人公敬太郎が世間の色々な人や出来事を見聞きするという、連作短編っぽい小説となっていた。柄谷行人の解説で本作は『吾輩は猫である』を書いた出発点への回帰でもあり、両作の構成の共通点が指摘されていたけど、確かに似てると思った。

 

* * *

 

本作で『彼岸過迄』『行人』『こころ』の後期三部作を読み終えた。

手元の国語便覧に後期三部作はエゴイズムの追及がテーマだと載っている。『行人』『こころ』はまさにそのとおりだと思う。だけど本作の段階では、エゴイズムはそこまで明確なメインテーマではないのではないかと感じた。もちろん重きが置かれていることは確かだけど、当時の世間の色々な生き方や悩み方の一例として書かれている。

 

そもそも”エゴイズム”って何なんだ。どうして夏目漱石はそれをテーマにしたんだろうか。後期三部作全体についての感想も書きたい。

 

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映画「ワイルド・ワイルド・ウエスト」の感想 やりたい事は分かる

スチームパンクな西部劇で、でこぼこコンビ大活躍!というやりたい事は分かるんだけど、どうも乗り切れない。

 

登場人物に魅力を感じなかった。特にウィル・スミスは「インデペンデンス・デイ」とか「メン・イン・ブラック」ではかっこよくて好きなんだけど、本作ではいまいち。彼は基本的に「スカした野郎」感のある俳優だけど、その感じが出すぎてるのが原因だと思う。

インデペンデンス・デイ」ではストリッパーの子持ちの女性を真剣に愛してるし、「メン・イン・ブラック」ではKに新米扱いされている。そんな応援したくなる面が「スカした野郎」感をいい塩梅に中和していて、かっこよかった。対して本作では特に欠点もない俺様キャラで、魅力がない。

 

あと一歩ですごく面白くなりそうな気がする。おしい。

敵のボスの秘書三人組はキャラが立っていてよかった。テーマ曲とオープニングもかっこいいと思う。あと大陸横断鉄道はユタ州でつながったということは勉強になりました。

 

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夏目漱石『吾輩は猫である』感想

 超有名だけど楽しむためのハードル高そうだなあ、という印象を持っていた。というのも「エリートの高級な皮肉の話」というイメージがあったから。
 実際に読了して、基本的にはイメージどおりだった。難しい言葉を使って、哲学とか漢文学とかから引用をたくさんして、シニカルな会話が続く。加えて当時の世相が分からないと理解できないところが多い。なかなか難しい。それでも楽しめたところも大分あった。

 

* * *

 

 これまで『行人』『こころ』『道草』と晩年の作品を読んできて、どれもシリアス100%だったので、本作のユーモアな感じは新鮮だった。だいたい『吾輩は猫である』というタイトルからしてなんだかおかしい。それでも、やっぱり共通する雰囲気があると思った。
 最後の第11章で苦沙弥先生の家に友達がみんな集まり、人生とか世の中について喧々諤々の議論をする。場が大いに盛り上がったあと、みんなが帰ると、家は急に静かになる。

 短い秋の日はようやく暮れて、巻煙草の死骸しがいが算を乱す火鉢ひばちの中を見れば火はとくの昔に消えている。さすがのんきの連中も少しくきょうが尽きたとみえて、「だいぶおそくなった。もう帰ろうか」とまず独仙君が立ち上がる。つづいて「ぼくも帰る」と口々に玄関に出る。寄席よせがはねたあとのように座敷は寂しくなった。
 主人は夕飯ゆうはんをすまして書斎に入る。細君は肌寒はださむ襦袢じゅばんえりをかき合わせて、洗いざらしのふだん着を縫う。子供はまくらを並べて寝る。下女は湯に行った。
 のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。悟ったようでも独仙君の足はやはり地面のほかは踏まぬ。気楽かもしれないが迷亭君の世の中は絵にかいた世の中ではない。寒月君は珠磨たますりをやめてとうとうお国から奥さんを連れて来た。これが順当だ。しかし順当が長く続くとさだめし退屈だろう。東風君も今十年したら、むやみに新体詩をささげることの非を悟るだろう。三平君に至っては水に住む人か、山に住む人かちと鑑定が難しい。生涯しょうがいシャンパンをごちそうして得意と思うことがあれば結構だ。

夏目漱石吾輩は猫である』改版,KADOKAWA,1962,p.512

 ここで言われる世の中のままならなさとか、人生の悲しさとかは、今後の作品にも共通しているように思う。そういえば『猫』と同じくユーモアが多い『坊ちゃん』も、痛快なお話の影で少し寂しく悲しい雰囲気があった。

 もっと具体的に今後の作品に繋がっていると感じたところもあった。例えば現代人は”探偵的”だという話がでてくる。

探偵は人の目をかすめて自分だけうまいことをしようという商売だから、勢い自覚心が強くならなくてはできん。泥棒もつかまるか、見つかるかという心配が念頭を離れることがないから、勢い自覚心が強くならざるをえない。今の人はどうしたらおのれの利になるか、損になるかと寝てもさめても考えつづけだから、勢い探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるをえない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の咒詛じゅそだ。ばかばかしい

前掲書 p.484

 この探偵的になる現代人をメインテーマにしたのが『行人』だと思う。他にも、拝金主義への批判として、本作の実業家金田への態度と『道草』の島田への態度が重なるし、苦沙弥先生が学校の生徒にからかわれるところは、『坊ちゃん』の生徒のいたずらを思いだした。

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* * *

 

世の中が個人主義になってきているという話が出てくる。

あらゆる生存者がことごとく個性を主張しだして、だれを見ても君は君、ぼくはぼくだよと言わぬばかりのふうをするようになる。ふたりの人が途中で会えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中でけんかを買いながらゆき違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなったわけになる。人がおのれを害することができにくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、めったに人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明らかに昔より弱くなったんだろう。強くなるのはうれしいが、弱くなるのはだれでもありがたくないから、人から一毫いちごうも犯されまいと強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛はんもうでも人を侵してやろうと、弱い所は無理にも広げたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きているのが窮屈になる。できるだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。

前掲書 p.496,497

 この辺り実感としてすごく分かるし、今後多様性が重要視されていくと、窮屈さも更に強力になっていくと思う。100年以上前の文章と思えない。漱石先生すごい。。


* * *


猫君は可愛かった。
テレビの動物番組で猫にアテレコして「ごしゅじんたまぁ、ごはんおいしいでしゅ」みたいなのあるけど、「吾輩は・・・」という口調の方が猫の無表情な感じにあってると思うし、こっちの方が可愛いよ。
批判に容赦がなく毒舌なところも、人間が言ったら腹立つだろうけど、猫だからなんか許してしまう。人に厳しい一方で猫君自身もドジなとこがあって、餅を食べようとして嚙み切れず、二本足で猫踊りを踊るシーンは可哀そうで可愛かった。

それだけにラストシーンは悲しい。やっぱり陰のある話だ。

 

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ネタばれあり『平成狸合戦ぽんぽこ』感想 必ず泣く

ネタばれあります!

フィクションで泣くことはほとんどないんだけど、本作は観るたびに泣く。悲しい一辺倒の話より、世の中悲しいことだらけだけど、まあ笑っていこうや的なのに弱いのかな。

当然エンディングテーマの「いつでも誰かが」が流れるところでは泣いてしまうんだけど、もう一つ自分でも理由がよくわからない泣き所がある。それが中盤のクライマックス「妖怪大作戦」のシーン。特に酔っぱらったじいさん二人が、おでんの屋台で、昔は狐の提灯行列とかよくあったよなあと話してるところで、ぶわっと来てしまう。

 

どうして泣いてしまうのか考えてみた。

じいさんたちは、妖怪が見えるのは人間の神経のせいだ、いると思っているからそう見えるんだという話をする。そうであれば、誰も信じなくなった今、妖怪は絶滅種だ。近代化により物質の世界では美しい自然が失われていったけど、同時に精神の世界では妖怪が滅んでいった。そんな滅び去った種族が楽しそうにパレードしてるのが切なく悲しいのだと思う。

また、そこに自分自身の経験も重なっている。幼いときは純粋にお化けが怖くて、一人で寝れなかったり、トイレに行けなかった。こんな不思議がたくさんの世界に生きていたように思う。そこにはもう戻れないんだというノスタルジックな切なさも泣いてしまう理由じゃないかな。

 

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『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』の感想 悪魔の怖さと人間賛歌

 

荒木先生が好きなホラー映画について語る本。深く批評するというよりは軽妙なトークといった感じで、読んでいて楽しい。

気になったのが「悪魔が一番怖い」というところ。

 といってもキリスト教徒が信じる悪魔とは違い、僕の考える悪魔というのは人間の罪が生み出したものです。つまり暴力を振るわれたり、戦争で死んだり、愛を成就できなかった人たちの怨念が何千年にもわたって蓄積した、いわば負のエネルギーの塊のようなものをそう呼んでいます。したがって人類に知性が備わった時から悪魔もいる。そして何かのきっかけで、負のエネルギーが一点に集まるような形でそれが具現化してしまう。何万年も存在するからには、物凄いエネルギーじゃないかと思うわけです。

 だからそういうものをおろそかに扱ってはいけないわけで、ホラー映画でも悪魔の出る作品だけは、安易に作るべきではないというのが僕の考えです。

荒木飛呂彦荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』 集英社,2011,p.192-193

ジョジョの奇妙な冒険』のスタープラチナ ザ・ワールドの設定で、承太郎の全盛期には世界の時を5秒止めたというのを読んで、痺れたことがある。一人の人間の力は、全宇宙の物理法則に伍するという設定だからだ。(同じような衝撃を受けたのが『AKIRA』のアキラが、もう一つの宇宙を創造するという話。余談)

ジョジョ』のテーマが人間賛歌であるということは有名だけど、荒木先生は人間の心の力に大きな信頼を置いている。正の力を信頼しているのに比例して、負の面に恐れを感じているから、上記のような考えを持っているんだと思った。

 

初めて知った映画も多くあり観てみたくなった。章扉にあるスケッチもかっこよい。

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出典:前掲書 p.63

 

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ドラマ「かまいたちの夜」感想 正直わけが分からない

ネタばれあります!

2002年に制作されたドラマ「かまいたちの夜」を観た。昔観た時に、よく分からん話だと思った記憶があった。改めて、本当にわけが分かりません。

まず第一に、実は内山理名藤原竜也のイマジナリーフレンドだった!みたいな話がラストの方に出てくるけどさ、みんな普通に内山理名に話しかけてて、明らかに実在してるよね?具現化系能力者なの?スタンドなの?

フィクションだから別にそういう世界観でもいいけどさ、終盤までミステリーの雰囲気で引っ張って、犯人は誰かとかアリバイはどうかとかやってたじゃん。そこまでの超常現象が許されるなら、真面目に観てたのが馬鹿らしくなる。

田中要次や温水を殺したトリック、温水を殺す動機がないこと、脅迫状を出す意味とか、解決されてないことだらけだ。考察しても「超常現象なんで」と言われると「そうですか」としか答えようがないが。

ストーリーや演出もわけが分からん。大阪弁の人の不倫の話いる?風切り鎌の話も雰囲気を出すためだけで、本筋にまったく関係しない。気が狂って田中要次の死体を解体してる女の子、ショッキングさを出したいのはわかるけど、誰か止めろ。

不条理劇とか映像詩として見るべきなのか。。。?

※検索したら、このサイトで観ることができるようです。

www.paravi.jp

 

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