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伊藤計劃『ハーモニー』感想 (ネタバレあります!)

ネタバレあります!

1.社会主義の極北

 伊藤計劃『ハーモニー』を読んだ。

 少し前に放送大学政治学の教科書を読み終わっていたんだけど、その内容を少し思い出した。

『ハーモニー』の舞台は人々の健康と生命が最優先される超福祉社会だ。そこでは各々の身体は公のものであるとされる。

 

 リソース意識。

 人はその社会的感覚というか義務をそう呼ぶ。または公共的身体。あなたはこの世界にとって欠くべからざるリソースであることを常に意識しなさい、って。「命を大切に」や「人命は地球より重い」の一族に連なるスローガン。

伊藤計劃著 『ハーモニー』 早川書房 p.23

 

これってまさに社会主義の思想なんだね。

 

社会主義の基本的な発想を,〈人間は本質的に社会的な存在である〉という言葉で規定できる。

(中略)

人は種として相互依存的,協同的にしか生存できないのだから,人の身体でさえ,その人が占有しているとはいえない。ある個人がもつ身体的・精神的能力は,一見その人の所有物であるかのようにみえるが,それは実は社会的な財でもあり,その開発と使用には,社会も責任をもつ。したがって一見個人が獲得した財であっても,それが排他的にその個人に帰属するとはいえないことになる。

小林良彰他著 『新訂 政治学入門』 放送大学教育振興会 p.155

 

教科書でこの説明を読んだとき、社会主義もなかなかよさそうじゃんと思っていた。が、その極北にあるおっそろしく窮屈な社会を体験できた。

窮屈さの一因はプライベートのなさだ。その社会では自分自身の詳細情報を公開することが普通となっている。霧慧トァンが言うように「世界に自分を人質として晒している」。

もう一つの原因は「命を大切に」「健康を大事に」というイデオロギーの圧倒的な正しさだと思う。正論だからこそ、それ以外の価値観に立つ瀬が与えられない。

この窮屈さは死に至るレベルだ。作中の社会では、自殺率が指数的に増加している。

 

***

 

2.ミァハの企てについて

御冷ミァハが企てて実行された人類の意識の停止。すごいインパクトだったけど、なかなかイメージできなかったというのが正直なところ。聞きかじったことのある哲学的ゾンビ(社会との調和がとれるよう調整されたバージョン)になるということかなとは思ったけど。

何が消失するのかについて、書かれている表現だと以下のとおり。

「意識」「意志」「わたし」「魂」

ということは「感情」や「理性」、ざっくり言うと「心」が消えるという理解でよいのかな?

あと、人類の意識が停止しても、特に問題はないという話。

 

人間はね、意識や意志がなくともその生存にはまったく問題ないんだよ。皆は普段通りに生活し、人は生まれ、老い、死んでいくだろう。ただ、意識だけが欠落したそのままで。意識と文化はあまり関係がないんだよ。

伊藤計劃著 『ハーモニー』 早川書房 p.264

 

んん。。そうなのかな?意識がないということは、プログラムどおりに動くロボットみたいなもので、プログラムにないことには対応できない気がするけど。あと、文化や芸術の発展は、意識の停止した世界でも可能なのかな?なんだか、うまく想像できない。。

 

例えば、生府のホストコンピュータに自己成長型AIが搭載されていて、意識はそのAIが受け持つ、だから人類の意識はいらない、みたいな話だったらなんか分かる気がする。

 

***

 

3.おわりに

本書は主人公トァンの一人称で語られる。しかし、人類の意識が消えた後の顛末について記されている、最終章のみは異なっている。謎の語り手の次のような言葉で本書は終わる。

 

 いま人類は、とても幸福だ。

 

 とても。

 

 

 とても。

伊藤計劃著 『ハーモニー』 早川書房 p.364

 

既に人類の意識は停止している。この謎の語り手にも心はないはずだ。心を持たない人物が「とてもとても幸福だ」と記しているのは、うすら寒いものを感じた。

 

ミァハの目指した世界の調和は達成された。けど、いくら美しいハーモニーが奏でられても、それを聴いて美しいと思う心がいないんじゃ、しょうがないのではないかと思った。