読みました。
表題作「日本の思想」の要約、解釈、感想が混じったものです。
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本書は、あとがきで著者が述べているように、
戦争体験をくぐり抜けた一人の日本人として自己批判 ーあまりにすりきれた言葉であるけれども、これよりほか表現の仕方がないーを根本の動機
丸山真男『日本の思想』 p.206
として書かれたものだ。
4つの文章が収められている。表題作「日本の思想」は1957年に発表された。
1945年の終戦から12年。日本が独立を回復してまだ5年。
日本の思想について、その歴史を追うような研究が少ないのはなぜか、という問いから始まる。理由は、研究の立ち遅れではない。日本の思想の性質に原因があり、次のように述べられる。
つまりこれはあらゆる時代の観念や思想に否応なく相互関連性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で ー否定を通じてでもー 自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった、ということだ。
同p.5
思想的な座標軸の欠如のため、思想同士の関連が整理されない。
神道、仏教、儒教といった近世以前の思想も、明治維新後に流入した西洋の思想も、すべて無時間的に雑然と同居し、相互の論理的関係が判然としないのだ。
思想を先に進めるために、このことを我々が自己認識する必要がある。
そのために、本論文では、これまでの日本における思想の受け取り方、思想のこれまでのあり方、批判様式を検討していく。
- 1.座標軸がないことにより、日本の思想にどのような特徴がみられるか。
- 2.なぜ、思想的座標軸が形成されなかったのか
- 3.座標軸の欠如が国體(こくたい)を生んだ
- 4.日本の近代化の様子
- 5.文学、社会科学への影響
- 6.これからどうすればよいか
1.座標軸がないことにより、日本の思想にどのような特徴がみられるか。
次の3つが挙げられる。
①思想の「思い出」としての噴出
思想が整理されず、ただ「忘却」されているため、ある日突然「思い出」される。
②取り入れる思想の歴史的構造の解体と「無限抱擁」
新たな思想を取り入れる際に、その歴史的経緯や前提と切り離し、部品として取り入れる。(なぜなら、自分達の思想が歴史的構造を持たないから)原理的に矛盾するものさえも「無限抱擁」して取り込む。
③批判がイデオロギー暴露になりがち
他の思想への批判が、その思想の内在的な価値や論理的な不整合をつくのではなく、思想の背後に隠された動機や意図の暴露といった方法=イデオロギー暴露の形をとりがちである。(なぜなら、自分の立ち位置が定まってないため、相手の価値を批判できないから)
2.なぜ、思想的座標軸が形成されなかったのか
座標軸がないこと、思想全体に構造がないことの原型は、日本の「固有信仰」にある。
「固有信仰」(儒教仏教以前の日本の信仰=日本神話から神道に連なる信仰)には、究極の絶対者がいない。
「神道」はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めて来た。この神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、さきにのべた日本の思想的「伝統」を集約的に表現していることはいうまでもないだろう。
同p.23
また、近代については、19世紀後半に自然科学的進化論を受け入れ、弁証法的発展の図式に受け継がれていったことも、座標軸を作ることに不利に働いた。
ある永遠なものーその本質が歴史内在的であれ、超越的であれーの光にてらして事物を評価する思考法の弱い地盤に、歴史的進化という観念が導入されると、思想的抵抗が少なく、その湿潤がおどろくほど早いために、かえって進化の意味内容が空虚になり俗流化する。
同p.25
3.座標軸の欠如が国體(こくたい)を生んだ
開国により、日本は思想的な軸が必要になった。どうしたか。これを天皇とした。
また、大日本帝国憲法を欽定憲法として、国家秩序の中核も天皇とした。
思想・精神的な機軸=天皇=権力・制度の中核として、天皇を軸に両者が結合し、国體(こくたい)が創出された。
国體という軸により思想が整理されたかというと、そうはならなかった。国體は、日本の思想的特徴②「無限包容性」を受け継ぎ、否定的な同質化(異端の排除)の面だけで強力に働いた。
国體は、徐々に行動の規制を超えて、内面的同質化の機能も果たすようになった。治安維持法、思想犯保護法がその具体例である。また、臣民に無限の責任を求めるようになった。(思想と制度・権力が結合しているから。無限の責任が求められるのは、思想は客観的に測れないから)
思想は、制度や体制に反映される。
その結果として、無責任な体系が生まれた。
大日本帝国憲法は、大権中心主義や皇室自立主義をとっているが、元老・重臣など超憲法的存在の媒介がないと、国家意思が一元化されない仕組みとなっている。
これには、決断主体を明確化することを避け、もちつもたれつの曖昧な行為連関を好む行動様式が作用していた。
4.日本の近代化の様子
日本社会の下層にある村落共同体には、国體と共通する部分が多かった。
その内部で個人の析出を許さず、決断主体の明確化や利害の露わな対決を回避する情緒的直接的=結合態である点、また「固有信仰」の伝統の発源地である点、権力(とくに入会や水利の統制を通じてあらわれる)と温情(親方子方関係)の即自的統一である点で、伝統的人間関係の「模範」であり、「国體」の最終の「細胞」をなして来た。
p.50
また、身分的中間勢力(貴族的伝統、自治都市、特権ギルドなど)が弱かった。
上から合理化が下降し、下から共同体的信条が上昇し、この2つがあらゆる国家組織や社会組織の内部に急速に転移していったことが、日本近代化の様子だった。
そのため、社会のいたるところに、機能的合理化と、家父長的人間関係の複合が見いだされることになった。
5.文学、社会科学への影響
文学史とか、マルクス主義に無知のため、勉強後に書きたいです。。。
あとがきにもあるように、理論信仰=社会主義を代表してマルクス主義と、実感信仰=文学の論争があったよう。
6.これからどうすればよいか
強靭な自己制御力を有した主体を生み出し、雑居から、雑種を生み出す必要がある。
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ちゃんと読めていないところが沢山あるけど、現段階の精一杯ということで書いた。
これからについて、「思想的な軸を作るべきだ」が著者の主張と思っていたけど、読むとそうでない。
軸は簡単に手に入るものではないし(西洋のキリスト教は1000年の歴史がある)、むしろムリヤリ軸を作ったことが、戦争の悲惨を生んだ。
だから、軸ではなく、「強靭な自己制御力を具した主体」を作って、雑居文化を雑種文化に高めるべきだというのが主張だ。
しかし、伊藤博文は、どうすればよかったんだろう。欧米諸国がアジアをガンガン植民地にしていて、大急ぎで近代国家を作らないといけない。
軸を天皇にしたことが悲劇を招いたが、かといって他に選択肢があったのかなあ。
また、論文の発表から60年以上たった2021年だけど、強靭な主体は日本にあるのだろうか。ないよなあ。
↓追記 また書きました。