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こんなに熱血先生だったとは 福沢諭吉『学問のすゝめ』感想

こんなに熱血で、ユーモアあふれる人だったとは。

しゃっきりしろ日本人!というお説教の本である。なのにとても面白い。文章の調子がよくて、そうだ!そのとおり!と合いの手を入れたくなる。演説のようなリズムにのって、福沢諭吉の熱さが伝わってくる。感化されてしまう。

あまり同意できなかったこと

全体としてはとても感銘を受けたが、当然、主張の全てに同意できたわけではない。初めにそこを書いてしまう。

社会的弱者への視点が皆無であること。まずはこれが気になった。

本書は「学問のすゝめ」というタイトルだが、ここで言う”学問”の目的は、個々人が独立し、そのことで国家の独立を保つことにある。本書のメインは、学問せよ独立せよ、という叱咤激励だ。

その上で、独立したくてもできない人はどうすればよいのかは、全く述べられていない。障害のある人や、全くの不運で学問をする余裕を失った人はどうすればよいのか。そのような人たちとも助け合っていこうという、社会福祉の視点がない。

また、国家への忠誠心について述べている部分も同意できなかった。例えば次の部分、

日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月をながめ、海を共にし、空気を共にし、情愛じょうあい同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにそのさちを祈り、天理人道に従って互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、

福沢諭吉著 『学問のすゝめ』 改版,岩波書店,2008,p.15

ここまではとても好きな文章なのだが、以下のように続く。

国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。

同p.15

この精神でどれだけの人命が失われたかを思うと、同意できない。本書が書かれたのは1870年代であり、まだ対外戦争の経験もなければ、ましてや徹底的な敗戦も経験してない時代だからこその主張だと思う。

福沢諭吉のファンになった

このように頷けない部分もあったが、書かれたのが約150年前ということを考えればそれは微々たる量で、全体を通してみると主張にはほぼ全面的に同意しまった。

もっと言うと、主張だけでなくて、その人間性に魅力を感じた。福沢諭吉のファンになった。まず、思想の根幹に、人間への信頼があるところがいいのだ。例えば、政府が悪い政治を行っている時の対処法に関し、

静かに正理を唱うる者に対しては、仮令たとい暴政府と雖もその役人もまた同国の人類なれば、正者の理を守って身をつるを見て必ず同情相憐れむの心を生ずべし。既に他を憐れむの心を生ずれば自らあやまちを悔い、自らきもを落して必ず改心するに至るべし。

同p.81

と述べる。また、現代の文明を、これまで過去の全人類からの贈り物と見なす。

親の身代を譲り受くればこれを遺物と名づくといえども、この遺物はわずかに地面家財等のみにて、これを失えば失うて跡なかるべし。世の文明は則ち然らず。世界中の古人を一体に視做みなし、この一体の古人より今の世界中の人なる我輩へ譲渡したる遺物なれば、その洪大なること地面家財の類に非ず。されども今、誰に向かって現にこの恩を謝すべき相手を見ず。これをたとえば人生に必要なる日光空気を得るにぜにもちいざるが如し。その者は貴しと雖も、所持の主人あら[ず。] ただこれを個人の陰徳恩賜と言うべきのみ。

同p.100

人類はみな同胞というヒューマニズムの信念を感じる。そこに惹かれる。

加えて、ユーモアのセンスも好きだ。全編に渡ってウィットに富んでいてクスクスしてしまう。特に十五編、西洋のものであれば何でも誉めたたえる当時の風潮を批判している部分。もし西洋の習慣と日本の習慣が逆だったら、西洋かぶれの学者が、どんな風に西洋のことを褒めて日本をけなすかを、想像して風刺している。これはもう半分落語です。もし、西洋人が毎日風呂に入り、日本人が月に一、二度であったら。もし、鼻をかむときに西洋人がチリ紙を、日本人がハンカチを使っていたら。その屁理屈に笑ってしまった。

 

こんな先生がいたらついて行きたくなるよなあ。とりあえず慶応の赤本買って来るべ。

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