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『漱石文明論集』感想 「模倣と独立」について漱石の本音を考える

 夏目漱石の文明批評に関する発言を、講演録や書簡など小説以外から集めた本。固有名詞さえ変えれば、今朝の新聞の社説ですと言われても分からないくらい。先見の明に驚かされる。

 本書に「模倣と独立」と題する講演が収められている。大正2年に第一高等学校(東京大学教養学部の前身)で行われたもので、要旨は次のとおり。

 人間には他を模倣する性質と、他から独立する性質の両面がある。両方とも大事であるが、現在の日本の情勢を観ると独立の性質に重きを置くべきである。

この講演録を読んで気になった点について書く。

「独立」への擁護の激しさ

 講演では「独立」という性質の長短が述べられている。まず短所について、独立の性質のある人は、世の中の人と歩調を共にすることができないから厄介である、と指摘される。次に、そのような短所はあるけれども、独立の性質の人には「自己の標準」があるから、ゆるすべきものがある、貴ぶべきものがあると、独立の性質が擁護される。この「自己の標準」があるから擁護できるという話、少し長いが引用すると次のとおり。

 元来私はこういう考えをっています。泥棒をして懲役ちょうえきにされた者、人殺をして絞首台こうしゅだいのぞんだもの、―法律上罪になるというのは徳義上の罪であるからおおやけ所刑しょけいせらるるのであるけれども、その罪を犯した人間が、自分の心の経路けいろをありのままに現わすことが出来たならば、そうしてそのままを人にインプレッスする事が出来たならば、すべての罪悪というものはないと思う。総て成立しないと思う。それをしか思わせるに一番いものは、ありのままをありのままに書いた小説、良く出来た小説です。ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人は如何なる意味から見ても悪いということをおこな ったにせよ、ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳くどく に依ってまさ成仏じょうぶつ することが出来る。法律には触れます懲役にはなります。けれどもその人の罪は、その人の描いた物で十分清められるものだと思う。私は確かにそう信じている。けれどもこれは、世の中に法律とか何とかいうものは らない、懲役にすることも要らない、そういう意味ではありませんよ。それは く申しますると、如何にはた から見て気狂きちがい じみた不道徳な事を書いても、不道徳な風儀を犯しても、その経過を何にも隠さずにてら わずに腹の中をすっかりそのまま描き得たならば、その人はその罪が十分に消えるだけの立派な証明を書き得たものだと思っているから、さっきいったような、インデペンデントの主義標準を曲げないということはゆるすべきものがあるといったような意味において、立派に恕すべきであるという事が出来ると、私は考えるのであります。

三好行雄編『漱石文明論集』岩波書店,1986,p.165

 この発言、しっかりとは理解できていない。だけど、殺人にすらゆるされる面があるなんて、強烈で過激な考えであることは確かだと思う。自分なりには次のように理解した。罪悪には、外:社会から見た罪悪と、内:自己から見た罪悪がある。外から見た罪悪とは、うえの引用文で言うところの徳義上の罪だ。一方、内から見た罪悪とは、自身の信ずる規範から外れていることだ。「独立」の性質の人には、確固たる「自己の標準」がある。この自己の標準に沿っているという意味で、殺人といった外から見ると明らかな罪悪にすら、内から見た場合ゆるされる面がある、ということだと思う。

「模倣」への怒りの激しさ

 上記のように「独立」という性質への擁護が過激だと感じた。一方で「模倣」という性質について、漱石が強い憤りを覚えていることを示唆する文章を読んだことがあった。以前、ちくま文庫の『こころ』を読んだが、この文庫に漱石の息子である夏目伸六氏が書いた文章『父 夏目漱石』が入っている。

mura-sou.hatenablog.com

 次のようなエピソードが語られる。夏目伸六氏が小学校にあがらない小さいころ漱石と兄と3人で散歩をしていると、いつの間にか神社の境内に出た。そこに射的小屋があり、兄が撃ちたい撃ちたいと漱石にせがみ、伸六氏もおそらく同様にねだった。二人に引っ張られて漱石はむっつりと小屋の中に入った。いざ撃つ段になって、子供たちは尻込みをする。

「おい?」突然父の鋭い声が頭の上に響いた。
「純一、撃つなら早く撃たないか」
私は思わず兄の顔へ眼を移した。兄はその声に怖気づいたのか急に後込しりごみしながら、
はずかしいからいやだあ」
 と、父の背後にへばりつくように隠れてしまった。私は兄から父の顔へ眼を転じた。父の顔は幾分上気をおびて、妙にてらてらと赤かった。
「それじゃ伸六お前うて」
 そういわれた時、私も咄嗟とっさに気おくれがして、
はずかしい……僕も……」
私は思わず兄と同様、父の二重外套まわしの袖の下に隠れようとした。
「馬鹿っ」
 その瞬間、私は突然怖ろしい怒号を耳にした。が、はっとした時には、私はすでに父の一撃を割れるように頭にくらって、湿った地面の上に打倒れていた。その私を、父は下駄ばきのままで踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振回して、私の全身へ打ちおろす。兄は驚愕きょうがくのあまり、どうしたらよいのか解らないといったように、ただわくわくしながら、夢中になってこの有様を見つめていた。

夏目伸六「父 夏目漱石」(夏目漱石『こころ』収録)筑摩書房,1985,pp.295-296

 なぜこんな酷い目にあったのか、夏目信六氏にはずっと理由が分からなかった。そして、理屈などなく、ただ漱石の持病のせいだと思うようになっていった。しかし長い時間がたったあと「模倣と独立」の中のある一文を読み、漱石の動機に思い当たる。

ところがつい先頃、私は何の気なしに父の全集を拾い読みしながら、ふと次の数句に気を惹かれた。それには、
「……私の小さな子供などは非常に人の真似をする。一歳違ひの男の兄弟があるが、兄貴が何か呉れと云へば弟も何か呉れと云ふ。兄が要らないと云へば弟も要らないと云ふ。兄が小便がしたいと云へば弟も小便をしたいと云ふ。総て兄の云ふ通りをする。丁度其後から一歩一歩ついて歩いて居る様である。恐るべく驚くべき彼は模倣者である。」

 私はこれを読んだ時、ちらっともう二十数年も前に起ったあの出来事を、どういうものか咄嗟とっさの間に思い起した。そして父のあの時の怖ろしい激昂の原因が、何かこの数語の中に含まれているような心地がした。恐らく父は生来の激しいオリジナルな性癖から、絶えず世間一般の余りに多い摸倣者達をー、平然と自己を偽り、他人を偽る偽善者ぎぜんしゃ達をー心の底から軽蔑けいべつもし憎悪ぞうおもしていたに違い。

前掲書 p.297

 だから兄の模倣ばかりしている弟に怒りを爆発させたのだ。もちろんこれは夏目伸六氏の推測であり、本当のところは漱石にしか分からない。だが十分説得力がある解釈だとブログ筆者は思う。

漱石の本音と建前

 この講演は「模倣」と「独立」両者の長短を挙げ、両者とも重要だが現状「独立」に重きを置くべきであるという、穏健な結論になっている。だけどそれは、第一高等学校の学生向けの講演であることを考慮に入れた、ある種の建前なんじゃないだろうか。上記の強烈な発言やエピソードを考えると、「模倣」より「独立」の方が比較にならぬほど重要である、というのが漱石の本音ではないか、と考えた。

 

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